翌昼、陽が高くなっても道満は板間に横になって、湿した手布で瞼を冷やしていた。
外縁をパタパタ歩く侍童の足音が耳に障る。
「道満様」
「客か?」
手布をそのまま、半分眠っているような声で道満は訊いた。
「あ、あの、晴明様と仰る姫君が」
道満はがばと起き上がり、次の瞬間頭痛に頭を抱えた。
「あ、あの、主人は昨夜御酒を過ごしまして」
別の侍童が言い訳するのが聞こえる。
額を押さえつつ、周囲を見回して烏帽子を拾って頭に据える。
衣服の襟元を直す前に、歩幅の大きい足音がした。
「なんじゃ、宿酔か?」
大きな異形の男が遠慮なく入ってきて、道満の前に腰を下ろした。
「ほれ、宿酔に効く薬だ」
綱は腰に下げていた、重そうな徳利を置いた。その振動さえ道満の頭に響く。
「迎え酒など要らぬわ。そなた、何処から入って来やった」
「儂やあっちの爺が一緒だと、あの小僧が卒倒するかもしれんだろう? 気を遣ってやったんだぞ」
見ると、音もなく、季武もそこにいた。
「そも、白銀人の事じゃ」
「む」
手布を几帳に掛け、道満は眉間に縦皺を寄せた。
侍童を次の間で押し留め、晴明はきちんと渡殿を通ってやってきた。
やはり、晴明が入ってきただけで、ふわりと空気が明るくなったように感じる。
「道満、寝ていたのですか? 済みませぬ」
晴明に言われて、道満はまだ襟元が乱れたままなのを思い出した。
「あいや、すさき所を見せて済まぬ」
道満は赤面し、後ろを向いて襟を直す。
それを見て、綱はにやにやしている。
「それごとき、晴明は気にすまいが」
「そなたと一緒にするでないわ」
衣の皺を延ばし、鬢を撫でつけ、咳払いをしてから道満は振り向いた。「白銀人の事か」
「ええ」
また、晴明は目を伏せる。
その眩しさに、道満の目が眩む。否、宿酔の所為であろうと、道満は自分に言い聞かせる。
「結界の内を伺っていたのが、近頃は如何にしてか、白珠の事を知ったようなのです」
白珠の事は、宮中でも知り得る者は限られていた。
帝の近しい所に居る者。
「……国舅が最近出侍せぬと……」
道満も恐る恐る口にした。
「成る程、国舅か」
季武も低い声で応じた。
神木と一体化した季武でも、いずれ寿命を迎える。まず、神木と一体化するのに、自身に相当な巫力を要する。
国舅は妻を先頃亡くし、自身の衰えを感じ、老いを恐れていた。
結界が成ったと聞いて、おそらく高貴な身の者は不死を得られると思ったに違いない。
「そうか、行方の知れぬ巫術師共は、皇后の侍師であったな」
輩の顔を思い出し、道満は沈痛な面もちになった。
「邪法の贄になったか、自身等も白銀人となり果てたか」
季武は天井を仰ぎ見て、嘆息した。
「肉体が無くば、如何にして人を襲うか?」
道満は、白銀人を見た事がない。
「自ら使役する式を生み出す者や、物に憑依して動かしたりする者が在るのです」
「生きている者にも憑依できるのか?」
「いいえ、それは出来ないようです」
失神している人間に乗り移られたら、晴明には手出しできないであろう。晴明がそう言うのなら、出来ないに違いなかった。
「宮内の様子を周知している相手なのですね。では、白珠を他所へ移しましょう」
晴明が立ち上がると、綱と季武も立った。
「参内するのか」
「その暇がありません。そちらは貴方にお願いします」
「え」
唖然とした道満に、季武が言った。
「儂も言上しよう」
季武はその異形の姿で、帝に疎まれているが、それでもその智に適う博士も居ない事も宮中に知られている。
帝も、確かにその言を入れぬ訳にも行くまい。
綱は来た時と同じく庭へ出て屋根に跳んだ。
晴明も瞬く間に道満の視界から消えた。
「道満、そなた急ぎ衣服を整えて参れ。儂は先に行く」
季武も庭から宙に舞い上がった。
季武が参内したと言っただけでは、案の定帝は出てこなかった。
なんと、道満が火急の用件だと告げても、まだ出てこなかったのだ。
奥宮の警護が血相を変えて駆け込んで、ようやく、帝が転がり出てきた。
「晴明が白珠を奪い去ったと?!」
「お鎮まり下され」
季武は冷ややかな声で言った。
帝は青い顔で振り返った。
「そ、そなたらまだ居ったのか! 白珠が!」
「お見苦しい、お鎮まりあれ」
更に季武の声は冷たくなった。
「晴明は白珠を奪ったのではございませぬ」
道満は帝の袖を掴んで引いた。
「芦屋!」
帝は不愉快そうに捕まれた袖を祓った。
「その事を奏上しに参内しました」
伏している道満の唇は、怒りに震えていた。
「結界の内を伺う妖鬼に、白珠の事を知られましてございます」
道満は顔を上げずに続けた。
「近くにいる者も妖鬼に襲われる事があるかも知れませぬ故、白珠を別の所に移しました」
「お、おう、左様か」
帝は露骨にほっとした顔になる。
「して、何処へ移した」
「御身のためには、ご存知ない方が宜しかろう」
季武の声の冷ややかさも、もう、帝は気になっていないようだった。
「そうか、そうじゃな。良きに計らえ」
帝が後ろも見ずに退出すると、道満はやっと顔を上げ、握っていた扇を床に叩きつけた。
「腐るな、道満。儂等が護るべきは民じゃ」
季武も帝の去った方など見もせず、禁裏を出て行く。
立ち上がった道満の足取りは重かった。
朝廷で高位を得ようとしていた己の行動は、一体何だったのだろう。
あんな昏帝に諂って、何を得たのか。
名乗った時の、綱の冷ややかな眼差しが、改めて道満の魂に突き刺さった。
将門に、朝廷の走狗と罵られた時の屈辱。
民草にも嫌われ、何もできぬ貴人と称される者にも蔑まれる。
晴明が眩しかった。
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