落雨滂沱4

 翌昼、陽が高くなっても道満は板間に横になって、湿した手布で瞼を冷やしていた。
 外縁をパタパタ歩く侍童の足音が耳に障る。
「道満様」
「客か?」
 手布をそのまま、半分眠っているような声で道満は訊いた。
「あ、あの、晴明様と仰る姫君が」
 道満はがばと起き上がり、次の瞬間頭痛に頭を抱えた。
「あ、あの、主人は昨夜御酒を過ごしまして」
 別の侍童が言い訳するのが聞こえる。
 額を押さえつつ、周囲を見回して烏帽子を拾って頭に据える。
 衣服の襟元を直す前に、歩幅の大きい足音がした。
「なんじゃ、宿酔か?」
 大きな異形の男が遠慮なく入ってきて、道満の前に腰を下ろした。
「ほれ、宿酔に効く薬だ」
 綱は腰に下げていた、重そうな徳利を置いた。その振動さえ道満の頭に響く。
「迎え酒など要らぬわ。そなた、何処から入って来やった」
「儂やあっちの爺が一緒だと、あの小僧が卒倒するかもしれんだろう? 気を遣ってやったんだぞ」
 見ると、音もなく、季武もそこにいた。
「そも、白銀人の事じゃ」
「む」
 手布を几帳に掛け、道満は眉間に縦皺を寄せた。
 侍童を次の間で押し留め、晴明はきちんと渡殿を通ってやってきた。
 やはり、晴明が入ってきただけで、ふわりと空気が明るくなったように感じる。
「道満、寝ていたのですか? 済みませぬ」
 晴明に言われて、道満はまだ襟元が乱れたままなのを思い出した。
「あいや、すさき所を見せて済まぬ」
 道満は赤面し、後ろを向いて襟を直す。
 それを見て、綱はにやにやしている。
「それごとき、晴明は気にすまいが」
「そなたと一緒にするでないわ」
 衣の皺を延ばし、鬢を撫でつけ、咳払いをしてから道満は振り向いた。「白銀人の事か」
「ええ」
 また、晴明は目を伏せる。
 その眩しさに、道満の目が眩む。否、宿酔の所為であろうと、道満は自分に言い聞かせる。
「結界の内を伺っていたのが、近頃は如何にしてか、白珠の事を知ったようなのです」
 白珠の事は、宮中でも知り得る者は限られていた。
 帝の近しい所に居る者。
「……国舅(こっきゅう)が最近出侍せぬと……」
 道満も恐る恐る口にした。
「成る程、国舅か」
 季武も低い声で応じた。
 神木と一体化した季武でも、いずれ寿命を迎える。まず、神木と一体化するのに、自身に相当な巫力を要する。
 国舅は妻を先頃亡くし、自身の衰えを感じ、老いを恐れていた。
 結界が成ったと聞いて、おそらく高貴な身の者は不死を得られると思ったに違いない。
「そうか、行方の知れぬ巫術師共は、皇后の侍師であったな」
 (ともがら)の顔を思い出し、道満は沈痛な面もちになった。
「邪法の贄になったか、自身等も白銀人となり果てたか」
 季武は天井を仰ぎ見て、嘆息した。
「肉体が無くば、如何にして人を襲うか?」
 道満は、白銀人を見た事がない。
「自ら使役する式を生み出す者や、物に憑依して動かしたりする者が在るのです」
「生きている者にも憑依できるのか?」
「いいえ、それは出来ないようです」
 失神している人間に乗り移られたら、晴明には手出しできないであろう。晴明がそう言うのなら、出来ないに違いなかった。
「宮内の様子を周知している相手なのですね。では、白珠を他所へ移しましょう」
 晴明が立ち上がると、綱と季武も立った。
「参内するのか」
「その暇がありません。そちらは貴方にお願いします」
「え」
 唖然とした道満に、季武が言った。
「儂も言上しよう」
 季武はその異形の姿で、帝に疎まれているが、それでもその智に適う博士も居ない事も宮中に知られている。
 帝も、確かにその言を入れぬ訳にも行くまい。
 綱は来た時と同じく庭へ出て屋根に跳んだ。
 晴明も瞬く間に道満の視界から消えた。
「道満、そなた急ぎ衣服を整えて参れ。儂は先に行く」
 季武も庭から宙に舞い上がった。
 季武が参内したと言っただけでは、案の定帝は出てこなかった。
 なんと、道満が火急の用件だと告げても、まだ出てこなかったのだ。
 奥宮の警護が血相を変えて駆け込んで、ようやく、帝が転がり出てきた。
「晴明が白珠を奪い去ったと?!」
「お鎮まり下され」
 季武は冷ややかな声で言った。
 帝は青い顔で振り返った。
「そ、そなたらまだ居ったのか! 白珠が!」
「お見苦しい、お鎮まりあれ」
 更に季武の声は冷たくなった。
「晴明は白珠を奪ったのではございませぬ」
 道満は帝の袖を掴んで引いた。
「芦屋!」
 帝は不愉快そうに捕まれた袖を祓った。
「その事を奏上しに参内しました」
 伏している道満の唇は、怒りに震えていた。
「結界の内を伺う妖鬼に、白珠の事を知られましてございます」
 道満は顔を上げずに続けた。
「近くにいる者も妖鬼に襲われる事があるかも知れませぬ故、白珠を別の所に移しました」
「お、おう、左様か」
 帝は露骨にほっとした顔になる。
「して、何処へ移した」
「御身のためには、ご存知ない方が宜しかろう」
 季武の声の冷ややかさも、もう、帝は気になっていないようだった。
「そうか、そうじゃな。良きに計らえ」
 帝が後ろも見ずに退出すると、道満はやっと顔を上げ、握っていた扇を床に叩きつけた。
「腐るな、道満。儂等が護るべきは民じゃ」
 季武も帝の去った方など見もせず、禁裏を出て行く。
 立ち上がった道満の足取りは重かった。
 朝廷で高位を得ようとしていた己の行動は、一体何だったのだろう。
 あんな昏帝に(へつら)って、何を得たのか。
 名乗った時の、綱の冷ややかな眼差しが、改めて道満の魂に突き刺さった。
 将門に、朝廷の走狗と罵られた時の屈辱。
 民草にも嫌われ、何もできぬ貴人と称される者にも蔑まれる。
 晴明が眩しかった。

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