巫術師の亡骸を結界の要に使う事は、古来より屡々行う事だ。
更に、その方が強力なため、生きている者を使う方式を、外道が行った例はないわけではなかった。
季武が血臭に気付いた時には、晴明は、苦痛に耐えながら抉り出した眼球に巫力と呪を込めている所だった。
季武の話に、綱も押し黙った。
道満は口を押さえ、青い顔をしていた。
「道満、言うまでもないが、これは朝廷に奏上するには及ばぬぞ」
「言わぬ」
美しい女は、自分の身の、僅かな傷すら厭う物である。
剛の男でも、自分の目を抉ることなど出来る物ではない。
季武は晴明を止める事が出来なかったのを、後悔し続けているのだ。
「あれは晴明の血涙を凝らしたものじゃ。心して護れ」
意を決したように、綱が晴明の消えた方角に走り出した。
道満は結界の内へ戻ることにした。
晴明が禁裏へ入ろうと、朝廷の宝を掠めよう筈もない。昨夜とて、その気なら、道満を伴う必要もなかった。
季武が言い置いたように、道満はもう一重結界を上掛けし、それでも晴明を押し止める事も、通った痕跡を見つける事も出来ぬであろうと思った。
勿論、晴明の目の事を奏上するつもりはなかった。
あの帝なれば、その経緯を知れば、今度は晴明に、道満自身を贄として奉じよと命じかねない。
そもそも、自分に出来るのか。
たとえ目が首であろうとも、白珠ほどの物が出来あがるとも思えぬ。
道満の腹の中が、じりじりと灼け付き、魂にその結晶した針がざくざくと突き刺さる。
『貴方や私に、太刀など要りますまい』
月光の下で微笑んで晴明は言った。
「儂に太刀が要らぬのは、そなたの張った結界の内だけだ」
道満は、禁裏の白砂の上で、顔を覆った。
「道満」
大路を下って行く道満を、その声が呼んだ。
眠っている間にも忘れた事の無い、晴明の声だった。
大きく息を吸ってから、噛みしめるように道満は答え、その名を呼んだ。
「……晴明」
狼狽を悟られぬよう、努めてゆっくり振り向いた。
昼の日差しの下でも、やはり晴明は光を纏っているように見える。
「健勝でしたか?」
「そなたこそ」
都の安寧は続いていた。
「あの綱と言う獣を置いていると聞いたが」
腸が煮えるのを感じながら、道満は訊いた。
「綱は人です」
晴明の目は、道満を咎める物になった。
「妖鬼を倒し、同胞を護る為にあの姿となったのですよ」
「だが、屋敷の内にあのような男を置くというのは、いかがであろうか」
「ああ」
晴明の瞳の険が溶けた。
扇を開いて、くすくす笑う。
あの時のように。
「まだうちの娘にご執心ですか?」
「……今日も式なのか?」
「さあ、どうでしょう」
紙扇の縁から覗いた瞳が緑色に光った。
「で、今日は何だ? どうせ用が無くば、儂の所へなど参るまい」
その言葉に隠った皮肉にも、晴明は気付きもしない。
「白銀人というのを知っていますか?」
「……知らぬな」
そう答えるのが、道満にとってどれほどの苦しみかも。
「最近、都の丑寅に出たようです。巫術師で、最近出奔した者など知りませぬか?」
道満の脳裏に、数人の顔が思い浮かんだ。
「如何な事だ?」
今度は道満の方が、晴明に尋ねた。
晴明が視線を落とす。
その睫毛の陰に、道満は見とれた。
「都のこの結界は、古にあったという結界とは違います。かつては死が無かったと聞き及んでおります」
眉間に小さく縦皺を寄せて、晴明はぎゅっと目を閉じる。
「死んだ者がいないなど」
「定められた寿命帳に基づいて、死を紡ぐ者が居たと」
そう言って唇をきゅっと噛んで、振り切るように晴明は顔を上げて目を開けた。
「――話を戻しましょう。この結界が、死を妨げるものではないのに不満を抱き、寿命を免れる為に、肉体を捨てた者のようです」
道満はぼんやりと晴明を見ていた。
「肉体を捨てた、か」
道満には理解できなかった。
目の前のこの輝く存在に触れたい。肉体が無くば、どうやって触れるというのだ?
そう思った瞬間、手を伸ばしていた。
「道満?」
扇を持つその手首をつかんだ瞬間。
それは呪の書かれた紙片に変じた。
「さすがは貴方、式だと見抜かれてしまいましたか」
ひらひらと落ちる紙片から、晴明の声がした。
晴明は気付かない。
道満が望んでいるのが何か。
「今度は式でなく、私が伺います」
すうっ、と紙片に隠っていた晴明の気が消えた。
道満はその紙片を拾った。
黒々と書かれた呪。
それを記した筆と、それを繰った指を思って、軌跡を指で辿る。
すると、今度は紙片が塵になって風に散った。
理が、道満の使うものと馴染まない為だった。
「異邦の力……」
晴明の肌に触れるどころか、気配を辿ることすら、道満には許されないのだ。
道満は顔を覆って、呻いた。
「……雲給え……雨給え……」
日にも月にも照らされたくなかった。頬に滴る物を隠したかった。
道満に天の気が応えたのか、やがて、雲が夕日と月を隠し、夜半には雨が降り出した。
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