落雨滂沱2

 翌日道満は、まず参内の命を伝令した者に、晴明の居を尋ね聞いた。
 その答えは曖昧で、ひどくあやふやだった。
 途中から記憶が抜け落ち、夢の中で文を渡しただけかと思ったが、目を開けた時には漆塗りの箱に入った文が晴明の返事に替わっていたのだと。
 期待はしていなかったので、その返答に道満は落胆しなかった。
 都中を晴明の気を探索したが、毛一筋ほどの気配も察することができない。
 つまり、白珠で都全体に張り巡らした、結界の外にいる可能性が大きいと言うことだ。
「晴明」
 ぼそ、と、道満は無意識にその名を呟いた。
「何でしょうか」
 すぐ後ろから、その声がした。
 声も出せず振り向いた道満に、晴明が言った。
「呼びましたでしょう?」
「あ、ああ」
 道満は目の前に立った、男装の美女をじっと見て、ため息を付いた。
「式か」
「ええ」
「今どこにいる?」
「外におります」
 やはり、結界の外。
 そして、道満には全く気配を察知できなかったのに、晴明の方は完全に道満の動きを把握している。
「そなたの住まいを訪ねたいが」
「いつなら居ると言えませんので、何ぞ用なら、此方から参ります」
「式がか?」
 不満そうなのを察したのか、晴明の姿を映した式は、少し笑った。
「ご用の向きによっては、私自身で参ります」
「帝の命にさえ、式だったのにか?」
「ああ、あれは」
 今日も男物の扇子を開き、口元を隠して、晴明の式が囁く。
「慮外な事を思し召しのようでしたからね」
 パチンと、扇子を閉じ、後ろを向く。
 どうやら、後宮に、と言うのが聞こえていたようだ。
「儂が訪ねると言うのにも、妻問いとはとは思わぬのか」
 道満が言ったのに、晴明の式は心底驚いたように目を見開き、動きを止めた。
 そして二呼吸後、いきなり笑い出した。
「女童ならば一人養ってはおりますが、貴方が妻問いするには幼うございますよ。貴方が私の娘婿ですか」
 扇子で顔を隠して、肩を震わせている。
「晴明」
「ああ、申し訳有りませぬ。そうそう、私の方も貴方に尋ねたいことがありました」
「うむ?」
 道満は、自分の顔の火照りを悟られぬよう祈った。
「土蜘蛛を敵と誓う、腕の立つ剣士が居ると聞いたのですが、存じませぬか」
「土蜘蛛と言うことであれば、渡辺の方の者ではないかな。が、剣の道を究めて、異形に変じたとも聞くが」
「そう」
 答えの後半の、「異形に変じた」と言う事は気にならないようだ。
「都の外に居りながら、儂が此処に居ることも分かっているのに、それは知らぬのか?」
「山家の育ちであります故」
 扇子の端から、右目を覗かせ、また晴明は声を潜めた。
「田舎者でございますので、宮内の作法を知りたく、奥宮の書庫を拝見致したいのですが」
「それは儂の権限でない。帝に奏上なされ」
「そうですか。分かりました」
 思ったより素直に晴明が引き下がったので、道満はほっとした。
「後は、何ぞご用がございましょうか」
 式であると分かっているのに、瞳を覗き込まれて、道満は目を逸らした。
 どれほどの巫術師であるのかなどと、訊けるはずもない。
「……いや」
「では、私は」
 パチンと扇子を畳み、頭を下げると晴明の式は背を向ける。
 ゆったりと歩いているようにしか思えないのに、あっという間にその姿は見えなくなった。
 つい先頃まで、妖鬼に怯え暮らしていたとは思われぬほどの安寧。
 かつてあったという結界とは異なり、死と言うものが無くなったわけではなかったが、人々は明るい顔をして行き交っていた。

 灯火の下で、道満は自身の書庫から出した書物を繰っていた。
 やはり、晴明の使うような術式は見当たらない。
「後は宮内の書庫を探すしかないか」
 溜息を付いたその時、雲が晴れたのか月光が明るくなった。
「道満」
 その声が呼んだ。
 道満は跳ねるように立ち上がり、外縁から門を見た。
 狩衣に月光を織り込んだように、その人影は夜陰に浮かんで見えた。
「まだ起きていたのですね」
「そなたこそ」
 そう言ってから、晴明が明かりも持っていないことに、初めて道満は気付いた。
「明かりも持たずにきたのか」
「月がありますから」
 急いで沓を履き庭から門へ向かう。
「暫し待て、太刀を」
「貴方や私に、太刀など要りますまい」
 晴明は微笑して、北へ進む。
「晴明、どこへ行くのだ」
「おや、貴方は宮内に行くのではなかったのですか?」
 晴明にそう言われて、道満は宮内の書庫を探すつもりだったことを思い出した。
 道満も並んで、北へ歩く。
 普段はもっと掛かるはずが、禁中への道も瞬きほどに感じられる。
 禁裏の最奥、常に殆ど人気のない書庫は、深夜というのもあって、常人なら怖じ気付くほどの静けさだった。
 しかも。  書庫には主がいた。
 白珠によって結界が施される前から、禁裏の書物を妖鬼達から守ってきた者だった。
 史の道を究めるために、人の姿を捨て、同化した神木を身の内に封じるために両腕を犠牲にした、卜部季武である。
「ほう、そなたが斯様な処へ来ようとはな。何を探しに来た?」
 ゆらゆらと乾いた声で、季武が訊いた。
「あ、ああ」
 道満はちらりと晴明の方を見やった。
 この不気味な姿の季武を見ても、晴明は動じる様子もない。
「まあ、良い。そなたなら、勝手に何でも見るが良かろうよ」
 季武は灯火の下に置いた書物の元へ戻った。
 さりとて何を探せば良いやら、考えも付かない。
 どの書を調べたものか、と悩んでいるところに、背後で物音がした。
「ああ、お目覚めでございますか」
 暁の光が部屋の中に差し込んできていた。
「お風邪を召しますよ」
 邸の侍童が、道満に笑いかけた。
 肩に掛けられた服に気付き、文机から顔を上げた。
「ああ、済まぬ」
 夢だったか、と道満は嘆息した。
 一寝入りしてから、道満は禁裏の書庫へ向かった。
 昼でも同様、近寄る者は無い。
 やはりそこに季武は居た。
「そなたか」
 呪の書かれた覆いで隠した顔をこちらに向け、季武が続けた言葉に道満は戦慄した。
「何ぞ忘れ物か?」
 凍り付いた道満に、季武は続けた。
「それとも、朝になって何か思いついたのか」
「季武、儂はいつ此処へ来た」
「昨夜遅くに、晴明と参ったではないか」
「晴明……」
 道満自身にも、己の声が震えているのが分かった。
「覚えて居らぬのか?」
 書庫を含む禁裏の宝物殿には、道満の施した結界がある。騒ぎを起こさずその結界を通るために、晴明は道満を利用したのだろう。
 道満の腹の奥が熱くなる。
 同時に、何故か、寝入った肩に掛かっていた服の事が思い浮かんだ。
 昨夜の季武は、道満に話しかけたのではない。
 晴明に声を掛けていたのだ。
「季武、そなた、晴明を見知って居るのか」
「そうじゃな、都を襲う妖鬼を打ち払う際に出逢うたによって」
 まさか宮内に、白珠を齋す前の晴明を知る者が在ったとは。
「いくら調べても、晴明の使う術の事など、ここに在る書には何一つ書かれては居らぬよ」
「晴明は此処へ何しに来た」
「打ち捨てられる筈だった書を、かつて儂が此処へ護り置いた。それを渡した」
「それは朝廷の物ではないのか?」
「朝廷がかつて火に投じ、消そうとした書物じゃ。朝敵の手に渡すのを怖れたわけでもなく、ただ、忌み嫌っただけのな。禁呪と言うわけでもなし。朝廷には塵芥と同じ物じゃ」
 確かに、それは以前、季武が
「こんな塵を、宝物のごとく書庫に置くのか」
と嘲笑された物であった。
「なれば、帝の御下問じゃ、あれはどれほどの巫術師であるのか」
 道満の言葉に、季武は鼻で笑った。
「帝の、か。ならば答えぬでもない。晴明の巫術は、異邦の力じゃ」
「見た事があるのか」
「勿論じゃ」
 季武は見えぬ顔で、道満を見据えた。
「あれは異邦の者。帝の支配の及ぶ者ではないと奏上するが良い」
 伺い見た晴明の右の瞳が、緑に見えたのも、月の光のせいではなく。
「人が晴明の袖に縋り、濁世に留めているだけなのだ。あれを支配しようとするなら、白珠諸共飛び去ってしまうと脅しておけ」
 季武の物言いは、徐々に不遜な物になっていく。そこには怒りが滲んでいた。
「帝の側に侍っておるそなたは知るまいな。今晴明は何をしていると思う」
 季武の怒りは道満の方へも向いた。
「今?」
「そうじゃ、今の今じゃ」
「何をしていると」
「何故自分の張った結界の中に居らぬと思う」
「居場所を知られぬ為と思うて居ったが」
 道満の声が、語尾に向かって小さくなった。
「ならば今、結界の外に出てみよ」
 季武は道満の横を通り過ぎる。
「何処へ」
「儂も晴明の処へ行くのじゃ。最早晴明を押し止める事は出来まいが、そなた、此処には今一重結界を施して置くが良いじゃろうな」
 慌てて道満は季武の後を追った。
「晴明の処で何をするのか」
「付いてくるなら、太刀を持った方が良いぞ」
 季武の言葉には棘がある。
 昨夜の夢と思った晴明の言葉。
『貴方や私に太刀など要りますまい』
 微笑と共に出た言葉に、棘など無かった。
「太刀が要るのか? 晴明も太刀を振っているとでも?」
「要らぬと言うなら、止めはせぬ。したが、儂は腕が無い故、そなたの事まで手が回らぬよ」
 冗談とも思えない事を言って、もう季武は道満の方を見なかった。
 それに続いて、道満は季武と同時に白珠の結界を抜けた。
 季武は徐々に高度を上げた。
 一度滞空し、ぐるりと回って、
「ふむ、あちらか」
と呟き今度は風を切って降りていく。
 道満が同じ高さに辿り着き、季武の向かった方を見下ろす。
 昼の光の中でも、ちかちかと弾ける光が見えた。
 驚き、道満もそちらに降りていった。
 無数の妖鬼が、光の中心に向かっている。
「土蜘蛛か!」
 高度を下げるにつれ、その数が上から見るより遙かに多い事が分かる。
 そして、先ほどの光の中心にいる者。
「季武か。……道満?」
 季武の法輪が、小さな土蜘蛛どもを弾き飛ばし、見えたその隙間から、晴明が道満を見上げた。
 同時に、輪の外にいた土蜘蛛が十数匹、道満の方に向かってきた。
 咄嗟に太刀を構えようとして、道満は丸腰だった事を思い出した。
 巫術の蒼龍が道満の背後に回って、今にもその前脚を道満の背に掛けようとした数匹の土蜘蛛を弾いた。
 季武が道満を見上げ、小さく舌打ちした。
 蒼龍を放ったのは、晴明だった。
 道満はようやく印を結び、呪を唱えた。
 更に向こうから駆けて来る者がある。
 遠目には人と見えたが、それは異形の姿をしていた。
 直接刃に触れる者だけでなく、剣圧で土蜘蛛どもを吹き飛ばし、道を切り開いてくる。
 やがて土蜘蛛の群も不利を悟ったか、姿を消した。
「そなたが綱か」
 その者よりずっと人からかけ離れた姿をした季武が、獣に変じたその男に尋ねた。
「人に尋ねるより先に、己が名乗れと言われなかったか」
 異形の剣士は、不愉快そうに言った。
 季武はカラカラと笑った。
「私は晴明と言います」
 パチンと紙扇を閉じて、晴明が烏帽子の頭を下げた。
 道満はその晴明の手元を見て、息を呑んだ。
 先程まで、土蜘蛛達の鉄より固い甲殻を弾き、断っていた物が、先日見たのと同じ、ただの扇だったとは思わなかったのだ。
「ああ、そうだ、儂は綱だ。貴様等は何だ」
 倨傲としか思えぬ態度で、獣の男は座を見回した。
「ん? 何だ、お前隻眼なのか?」
 馴れ馴れしい態度で、綱は晴明の顔を覗き込んだ。
「ええ、左目は失いましたが、右目は残っておりますから」
 晴明は無礼な綱の言葉にも動じた様子もなく、微笑して答える。
「違いない。ならば、それほどの美貌じゃ、男のなりなどせずとも良かろうが」
 綱は照れる様子もなく、先程の無礼な言葉と全く同じ調子で言う。
「似合いませぬか?」
「いや」
 綱の答えに、また季武は笑った。
「諸肌脱いだままのそなたが、人の着物の事を言おうとはな」
「何じゃ、この木の爺。お前は名乗らぬのか」
「はっはっは、儂は季武と呼ぶが良かろう」
 物怖じせず、ずけずけ物を言うのは、妖鬼を怖れぬ強さからだけではなく、幼さにも依るのだ。
 高い背と異形の姿で分かりにくいが、綱は若いのだ。
 恐らく、道満の半分の年月ほどしか、まだ生きていないのだろう。
 金色の目で、綱が道満を見る。
「お前は誰だ」
「あ、ああ。儂は道満だ」
「ほう、都一の巫術師様か」
 鄙の無頼の剣士すら、道満の名は知っていた。
 が、そう言った綱の言葉には敵意があった。
 道満ら朝廷の者は、都の守護に手一杯で(その都すら、晴明が白珠を齋すまで妖鬼の侵入を阻みきれなかったのだが)、渡辺の集落の殆どが土蜘蛛に食い荒らされたのを放置していたのだから。
「綱、貴方の処にも結界を張りましょう」
「要らぬ、もう誰も居らんからな」
 晴明の方を見もせず、綱は言った。
「貴方は独りで居たのですか」
「そうだ」
 落ちている土蜘蛛の脚を拾って、綱はその甲殻を引き剥がす。残りの部分は無造作に投げ捨てた。
 甲殻を甲冑などの細工に使用する者が在る。それでその部分を拾い集めているのだろう。
「奴ら骨も残さず喰いやがるからな。墓を作る手間も無し、だ」
「そうですか……間に合わず、済まない事をしました」
 晴明は、綱に深々と頭を下げた。
 季武は溜息を付いただけだったが、綱と道満は驚き、狼狽えた。
「……そなたの責では無い」
 季武の言葉には、晴明のそれと同じくらい、血の滲んだような苦さがあった。
「我らの所為じゃ、のう、道満」
「あ……」
 道満は口を開けたが、何と言うべきなのか分からず、言葉が続かなかった。
 晴明は無言でもう一度綱に頭を下げ、跳び去った。
「ん? 晴明は何処へ行くんだ」
 綱が季武に訊いた。
「そなたの村が、これ以上荒らされぬよう、封をするのであろうな」
 晴明が消えた方の空を見上げていた季武は、また嘆息して、道満の方を見た。
「晴明が何故左目を失ったか、教えてやろう」
 綱は不思議そうな顔で、二人を見比べていた。
「あれはな、自ら抉り出したのじゃ」
「は?!」
 道満の声を打ち消すほど、綱も大きな声を上げた。
「何じゃそれは」
「道満、白珠じゃ」
 二人にはまだ分からない。
「あれが晴明の左目じゃ」
「ああっ?!」
 綱はまた大きな声を上げたが、道満の方は声も出せなかった。
「異邦の者であるのに、我らを護る為に、まさかそこまでするとは思わなんだ」
 季武の声には後悔が重なっていた。
 道満はぞくりと身を震わせた。

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