外伝 オデッセイア6


 ペネロペは大きく波打つ明るい栗色の髪、碧眼、ばら色の頬をした美しい乙女だった。
 オデュッセウスが承諾したとの先遣りの連絡を受け、間も無く健康を取り戻していた。
 王女の婚約者としての歓待を受け、数日を過ごすうちに、オデュッセウスはペネロペの事を思い出した。
 この可憐な乙女はひたむきな愛情を示し、婚約者に不如意のないよう心を砕いた。
 父王は婚約者の気が変わらぬ内にと、イタケーの王に急使を飛ばし、二月後には婚儀を行うよう取り決めてしまった。いっそのこと先に娘と同衾させてしまおうとしたが、それはオデュッセウスが頑として聞き入れず、それは仕方なく諦めたのだった。だがその事は、却って清廉な青年であるとイーカリオスを感心させ、その娘の見る目を認めたのであった。
 先に花嫁を迎える準備の為、イタケーに戻るオデュッセウスを涙で見送ると、ペネロペは侍女達に励まされながら花嫁衣裳の仕上げに掛かった。アテナから太陽の様に光る飾り帯と、蜻蛉の羽のように輝くヴェールが届けられた。
 やがて、婚礼の日となり、金色の輿に乗って、花嫁の行列は、花を撒きながらイタケーの城に到着した。
 持ち込まれた山ほどの財宝と、見た事の無いほどの美しい花嫁に誰もが溜息をついた。披露された持参金の目録には、ラコーニアの銀山までが含まれていた。
 ヴェールの下で頬を上気させる可憐な花嫁を見ながら、花婿は瞼に浮かぶ黒髪を忘れようと努力し続けた。
 この樋より重いものを持った事がないであろう王女を、自分が守らなくてはいけないと思った。
 オデュッセウスは花弁に埋め尽くされた新床に花嫁を横たえ、アテナからのヴェールと飾り帯を外す。花嫁はオデュッセウスの腕の中で震えていた。
「本当に私で良いのですね」
 花嫁は固く目を閉じたまま無言で頷いた。
 その時目を開けて花婿の顔を見ていれば、オデュッセウスが抱こうとしているのは別の女性である事に、ペネロペも気付いたかもしれなかった。
 だが間も無く明かりが落とされ、ペネロペはオデュッセウスの妻となった。

 やがてペネロペは身ごもり、男児を生んだ。
 妻の婚資により、イタケーは豊かになり、平穏な日々が続いていた。妻は一層美しさを増し、夫もこれで良かったのだと思い始めていた。
 それは誰の目にも幸福な一家であった。
 さて、その頃イタケーにも、妻の従姉妹たるスパルタ王妃ヘレネがトロイア王ヘクトールの弟と出奔したと言う噂が流れてきた。
 その噂にペネロペは柳眉をしかめた。
 ヘレネは肉感的な美女で、子供の頃から奔放な所が有った。そのくせうっとりと恋を語り、いつも夢見るようであった。
 行きずりの愚かな男に口説かれ、これこそが本当の恋と思い込んで、手に手を取って逃げてしまったに違いないと思われた。
 オデュッセウスの胸にも不吉な予感が影を落とした。
 小国たるイタケーは、保身の為、ミュケナイ、テッサリアなどと同盟を結んでいた。立場をわきまえぬ男女の行動は、国同士の諍いになるかもしれない。
 予感は的中し、パラメデスが誓約の執行を求めて港へ到着したと聞き、オデュッセウスは城を出て畑で狂人を装った。
 それほどの戦となれば、かの「黄金の女神」が自身の前に再び現れるであろう。
 そうなった時、自分はどうするのだろうと、何よりそれが恐ろしかったのである。
 だが、パラメデスは胸に幼子を抱いたペネロペを伴い畑にやってきた。
 聡明な夫の不可思議な行動に怯える妻の表情から、パラメデスはオデュッセウスの擬態を見破り、母の胸からテレマコスを取り上げて、オデュッセウスのくびきの前に置いた。
 慌ててくびきを制止したオデュッセウスの腕を掴み、パラメデスは老父への挨拶もさせず、そのまま自らの乗ってきた船に乗せ、号泣するペネロペを振り切って船を漕ぎ出したのだった。
 我が子と、戦場に居る夫の為にと、泣き腫らした目で、それでもペネロペは主婦たる務めを果たし、刈り入れも老王への世話も取り仕切り、イタケーが衰えるような事はなかった。
 だが戦は夫方の勝利に終わり、禍根となったヘレネさえも、平然と夫の元に帰り平穏に暮らしていると聞いても、肝心の夫は帰って来なかった。
 既にテレマコスは立派な若者になっていた。
 悲しみが更に美しさを増したのだと言われる、王妃の空閨を狙う者が何人も出てきた。イタケーなどは大した事は無かったが、熟れた美女と莫大な持参金である。不埒な事を考える者があっても仕方ないとも言えた。
 王妃への求婚者たちが次第に増長を始める。
 ペネロペは王と王妃の寝室に内側から鍵を掛けていた。
 広い寝台に横たわり、夫の事を思った。
 戦果として美女を得たとも聞いた。
 夫の実に疑いが生じ始める。
 夫は妻を抱きながら、『私のクリュセ』と言う事があった。
 クリュセ、『黄金の女神』と言うのは、本当に自分の事だったのか。
 オデュッセウスがほかにクリュセと呼ぶ事の考えられる者、それはアテナ神以外に無いではないか。
 ペネロペの涙のように、夜の雨がイタケーを包んでいた。
 何かを決心したかのように、ペネロペは立ち上がった。外套をまとい、胸に短剣を忍ばせて部屋を出る。雨の音が足音を消してくれたらしい。侍女たちにも気付かれずに外へ出られた。
 もとよりの冷たい雨の夜更けに、外を歩くのはペネロペだけであった。ふらつきながらも何にも邪魔されずにペネロペは目的地に着いた。
 アテナの神殿であった。
 静まり返った神殿に、ペネロペの濡れた体を引きずる音だけが響いた。
 冷え切った体に、思う様息を吸い込み、王妃は生まれて初めて大声を上げた。
「アテナ様!私の夫をお返し下さい!」
 怨嗟の声だった。
「何故私の夫をお取り上げになるのですか!あれは私の夫です!」
「ようも言うたな!」
 鋭い返答があった。予想外の事に、ペネロペはヒッと悲鳴をあげた。
「私がお前の夫を取ったと申すか!」
 奥から現れた人影が叱責した。
 夜空のごとく黒い髪、菫色の瞳、乳色の肌、赤い唇、オデュッセウスが歌うように語っていたそのままの姿であった。
 パラス=アテナに間違いなかった。
 まさか、こんな僻地の神殿をアテナ神が訪れようとは夢にも思わなかったペネロペは、恐怖に動く事ができなかった。
「お前はペネロペだな。私が取ったと言うは、オデュッセウスの事か。そうか、本当に戻ってないのだな」
 アテナは優雅に階を降り、ペネロペの正面に立った。そして、哀れむ様にペネロペを見た。
「剣をお出し」
 完全に飲まれてしまっているペネロペは、無意識に剣を差し出していた。
 ペネロペは死ぬつもりで此処へ来たのだった。
 夫の愛を独り占めしていた女神への、その満たされぬ愛の捌け口として自分を扱っただろう夫へのあてつけとして、せめて自分の血でアテナの神域を汚そうと企んだのだった。その為の短剣であったのに。
 女神は剣を受け取ると、後ろにつき従っていた巫女に振り向きもせずに渡した。
「……夫をお返しください」
 ペネロペは石の床に崩れ落ちた。
「オデュッセウスは私を愛してはおりません。ですが私には彼が必要なのです」
「美しい女よ、誰がお前を愛さないと言うのか」
 アテナは衣装の裾が濡れる事も厭わず、膝まづいてペネロペの縺れて濡れた髪を撫でた。
「こんなに冷えて、体を壊すぞ」
 すっと立ち上がると、
「クレオパトラ」
「はい」
 呼ばれた巫女が返事を返す。
「この者を湯に入れて、乾いた服を与えよ。お前に任せる、ペネロペについておれ」
「承知いたしました」
 アテナは裾を翻して神殿の奥に向かう。ペネロペを振り向き、
「お前の夫は必ずお前の元に返してやる。慮外いたさず待っておれ」
 と微笑んだ。


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