外伝 オデッセイア7


 不実なペネロペの夫は、オギュギエの島に居た。
 かの島の主たるカリプソの愛人として、日々を送っていた。
 暗い目をして、オデュッセウスがそぞろ歩いていると、隠者のように頭からフードを被った男が道端の岩に腰掛けていたのが目に入った。
 普段ならば目にも留める様な者ではなかったが、妙な威圧感を覚え目に入ったのだった。
 不気味に感じながらも行き過ぎようとした時、
「待て」
と、隠者が、低い、聞き覚えのある声を発した。
 立ち上がると隠者はフードを脱いだ。彼はオデュッセウスより二〇近くも若いと思われる、広い肩をした黒髪の青年の姿をしながら、その瞳にはいかな長老とても足元に及ばない叡智を湛えていた。
 オデュッセウスは膝をついた。
「久しいな」
「ヘファイストス様……」
「お前は此処で何をしている」
 オデュッセウスは答えられなかった。
「まだ恥じ入る心は持ち合わせているようだな。昨夜、お前の妻が、トリートゲネイアの所に夫を返せと怒鳴り込んだぞ」
 オデュッセウスが顔を上げて、ヘファイストスを見た。そこに滲んだ怒りを認めて、オデュッセウスは再度視線を地面に落とす。
「ペネロペが……」
「ほう、己が妻の名を覚えていたか」
 フードを戻し、神は歩き出した。
「トリートゲネイアはイタケーへ行っている。明日にはこの島へ来るだろう。お前はその姿をトリートゲネイアに見せられるのか」
 オデュッセウスは地面に両手をついたままだった。神の足音と声は遠ざかっていく。
「トリートゲネイアを悲しませたらただでは置かんぞ」
 
 ペネロペを館に返して次の日、ケープで身体の線を隠し、旅人の杖をついてアテナはイタケーの島に降り立った。
 前の晩のうちにオデュッセウスの居所は知れた。ペネロペの思い詰め様を案じたアテナは、先にイタケーの様子を見る事にし、その隙に、オデュッセウスが自棄になって肉欲に溺れている事を察したヘファイストスが、オギュギエに向かったのだった。
 アテナは、綺麗に梳かれた髪をわざと乱してから大雑把に結わえ、更に海辺の砂を頭から被って簡単に払いのけ、ようやくオデュッセウスの館に向かった。
 入口に立つと、中の喧騒が聞こえた。
 クレオパトラが目ざとくアテナの姿を見つけ、静かに出迎えた。
「ペネロペ様は昨夜旦那様に頂きました薬で、まだ眠っておいでですが、風邪も召されずに済みそうです」
 館の侍女に扮した巫女は、アテナに耳打ちしながらクスクス笑った。
コスプレ「御髪を梳きました者が泣きましょうね」
「似合うかね?」
「ええ、どんななりをなされましても、旦那様は輝くようですわ」
 アテナは咳払いをした。
 それと同時に巫女はまるで見知らぬ者を見るような顔を作った。
「どうぞ、旅のお方」
「オデュッセウス殿はご帰還されていますか」
「主人はまだ戻っておりません。主人をご存知ですか」
 適当な領主の名でも使おうと思ったが、体の線を隠しても声変わり前の若造にしか見えないだろう事を考えて、止めた。
「先に帰られてあると思いましたが。かの戦役の後にお寄りになられた島の者です」
「左様でございますか。若様」
 声を掛けられ、振り向いたテレマコスの隣に、席を作って、クレオパトラはアテナを導いた。
「こちらの旅の方は、お父上にお会いになられたようでございますよ」
 小声で言うと、礼をしてクレオパトラは下がった。ペネロペを見に行ったのであった。
 テレマコスはアテナに席と飲み物を勧めた。
「恐れ入ります」
 若い見掛けに似合わず優雅なしぐさに、テレマコスは好感を持った。
「お若い方、オデュッセウスの愚息、テレマコスと申します。この有様とて、何のおもてなしもできませんが、どうぞ雨露位は凌げましょう。昨日も夜来から激しい雨が降りました。今宵はこちらへお泊まりあそばします様に」
「忝く存じます。こちらこそ若輩の身でございますれば、何の話の種も有りますまいが、お差し支えなくば、お聞き願えますか」
 テレマコスは声を低めた。
「父にお会いになったそうでございますが」
「左様ですね、では」
 アテナはすっくと立ち上がった。
「酒宴におってもつまりません。お庭を拝見いたしたく存じます」
「では参りましょう」
 テレマコスも席を立った。
 上座で二人をアンティノオスが見つめていた。
 隣席の男が言う。
酔っ払い?「どうした?ん?何だ、ガキか」
「おお、あの旅のもの、埃だらけだが中々の美童だ」
「二人で席を立ったぞ」
「子供は子供同士、外へ遊びに行ったんだろう」
「そうだな。テレマコスにまだ美童遊びができようとも思えぬしな」
 二人は下卑た笑い声を上げた。

 中庭を通り、そっとテレマコスの部屋に通されると、アテナはケープを取った。
「私はアテナだ」
「は?」
 目の前の少年がいきなり女神の名を名乗った事に、テレマコスは事態を直ぐに飲み込めず、間の抜けた声を出した。
 だがようやく落ち着き、目の前に居るのが美しい女性であると分かった時、言葉の意味が分かって床に平伏する。
「お前の父は必ず帰してやる。だが、お前も既に子供ではない。父が戻るまではお前が此処の王なのだから、しっかりすることだ」
「父は戻りますでしょうか」
 テレマコスは女神の言葉に疑念を差し挟んだ。
「何?」
 女神の眉間に薄く皺が寄った。
「父は戻りますでしょうか」
 泣き暮らす母を毎日の様に慰めていた息子は、顔も思い出せぬ父の心情を、同性として分かりかけているのだった。
 女神の黒い睫が翳った。
「戻るとも」
 テレマコスの赤い髪の上に手を置いて、女神は静かに言った。
「私が無理やり連れ帰るのではなく、オデュッセウスは己の足で帰って来るだろう。お前の母にもそう言うが良い」
 女神は再び粗末なケープを巻いて部屋を出て行った。
 オデュッセウスを明日にでも送り届けてやろうと思っていた。だがそれでは駄目なのだ。
 それでは、この一家は幸福を取り戻す事は無いのだ。
 女神はオギュギエからの道のりを思い、嘆息した。


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