外伝 オデッセイア5


 アテナが工房の扉を開けると、思った通り、ヘファイストスはアレスの剣を調整していた。
 作業台の向かいに座り、声を掛けた。
「見ていても良いか」
「ああ」
 ヘファイストスは顔も上げず、作業を続けながら、返事をした。
 アテナはヘファイストスの手元ではなく、顔を見つめた。
 女神はこの男神の怒ったところを見た事が無かった。物静かに微笑むばかりであったような気もする。工房では、微かに眉間に皺を寄せる事はあったが、作業中の事だけである。
 たとえオデュッセウスが何か口を滑らせたとしても、まともに取り合うような事は考えられなかった。少なくともアテナの知る範囲では。
 アレスが、アテナの崇拝者達に興味を抱く事は稀であった。「回復するまで会わせない」と言われて、その間オデュッセウスの事を訊き回っていた事は、当然アテナの耳に入っていたが、まさかそこから、ヘファイストスの名が出るとは予想していなかった。それが『勘』と言われても、アレスは言い逃れの為だけにヘファイストスの名を挙げるような事は無い。
 更に、ヘファイストスはアレスに対しては心を開いているらしい事を察していた。また、アレスはああ見えて、ヘファイストスに心酔しているのだ。
 作業が一段落したらしく、ヘファイストスは顔を上げた。
「何かあったか」
「誰も彼も根を詰めすぎるようだ。勤勉なのは承知しているが、少し休まないかね?」
 アテナも逡巡していた事を微塵も見せず、花の様に微笑んで、立ち上がる。
「そうだな」
 ヘファイストスも莞爾と微笑んで立った。
 工房の前に、アレスが立っていた。
 口約束はしたものの、アテナがヘファイストスに話しているのではと不安になったらしい。
「アレス、剣ならもう直ると思うが」
「おっ、おう」
 ヘファイストスに穏やかに言われ、却って不安が増したようだ。二人の後ろに付いてアレスも移動した。
 前を行く二人はいつもと全く変わりが無い。
 それだけに、アレスは恐ろしかった。
 アテナは言わなかったのだろう。ヘファイストスはそれでも何か気付いた筈だ。
 お互いに気付かない振りをして、談笑する二人が恐ろしかった。

 それきり、アレスが無理を言う事もなく、数年間オデュッセウスはアテナの元で修行を積んでいた。既にキクロスも妻を娶り、故郷に帰っていた。
 ある日、アテナから呼び出しを受け、オデュッセウスは慌ててアテナの私邸に向かった。
 入口で巫女に取次ぎを頼み、その間に呼吸を整える。招じ入れられると、豪奢な椅子に座ったアテナが、オデュッセウスを見て微笑んだ。
「お召しにより参上いたしました」
 紅潮した顔を隠すように、オデュッセウスは平伏した。
「オデュッセウス、幾つになったね?」
「一九でございます」
「そうか」
 アテナが立ち上がった。
「イーカリオスを知っているか」
「スパルタのテュンダレオス様の弟王でございますか」
「その娘は知っているか」
「存じ上げません」
「……そうか」
 女神は少し困ったような顔をした。
「イーカリオスがお前を婿にしたいと言って来たのだが」
「は?」
 オデュッセウスは少し間の抜けた声を出した。
「私ですか?」
「そうだ」
 青年は必死に記憶を捜したが、イーカリオスと繋がるようなものが出てこない。
「ラエルテスの所に直接でなく、イーカリオスが私の方に言って来たのでね。先ず本人に訊くべきかと思ったのだが……。そうか、知らんか」
「ぞ、存じません!何方かとお間違えなのでは」
「いや、向こうは、イタケーのオデュッセウスと言っていて、赤毛の左膝上に傷のある若い男と言っているので、間違いではないようだ」
 うろたえるオデュッセウスに、アテナは軽く首を傾げ、思い当たる事があったらしく、オデュッセウスに向き直り、
「ちょっと此処で待っておいで」
と言うと、部屋を出て行く。
 まもなく戻ってきたアテナの腕には一枚の織物が掛けられていた。
「待たせたな。これに見覚えはあるか?」
 アテナが広げたその布には、見事な景色が織り込まれていた。
「拝見したような気はいたしますが……」
「これは私の所に捧げられた物だが、これを持って来た者を憶えては居ないか」
「申し訳ございませんが……」
「これを織った娘はペネロペと言う、イーカリオスの娘だ」
「左様でございますか」
 オデュッセウスは気の入らない返事をした。
「どうするね?」
「お手数ではございますが、お断り頂きたく存じます」
 オデュッセウスは即座に答えた。
 アテナはやれやれと言う顔をして、
「イーカリオスを此処へ通すように」
と巫女に命じた。
 やがて通されたイーカリオスは、オデュッセウスを見ると駆け寄った。
「そうだ、この若者だ」
「お初に御目もじいたします」
 冷静なオデュッセウスに、我に帰ったイーカリオスはアテナに対して膝をつく。
「並ぶ者無き美貌と英知の女神たる、慈悲深きパラス=アテナ様、この者とお引き合わせ下さいまして、有難う存じます」
 また、女神は少し困ったような顔をして
「私はこのような役に向いていない様だ。そなた、自分で婿を得よ」
と言うと、部屋の隅の椅子の方へ移動した。
「オデュッセウス殿、私はイーカリオスと申す。非常に前途有望な青年と漏れ聞いた。私にはペネロペという娘があってな、親の口から言うのもなんだが、見目良く、慎み深いとの評判で、近隣諸国からの求婚が引きやらぬ娘だ。それを娶わせよう。わが婿になってくれんか」
「そこまでの者ではございません。お買い被りでございましょう」
 自分を取り戻したオデュッセウスは、微笑みながらイーカリオスをかわす。
「……分かった、我が国の婿にならずとも良い、ペネロペを貰って下さらんか」
「私はまだ修行中の身でございますれば、何卒ご容赦を……」
「どなたか、良い方がおありか」
「いえ、そのような事は」
 胸の氷片が疼いたが、青年は表情を崩さず言った。
「されば、十分な婚資をつけよう」
 流石にオデュッセウスも疑念を顔に出した。
「……何故そこまでの事をおっしゃいますか。我がイタケーは小国、そこまでして姻戚を結ぶ程の事もございますまい」
 イーカリオスも観念したらしく、肩を落とした。
「ペネロペは自分の織った物をアテナ様に奉納に上がる際、貴殿と会ってより、貴殿の事を一時も忘れられず、碌に食事もとらず臥せってしまった。こうなれば貴殿に貰ってもらうより無かろうと、ようようこちらへお願いに参ったのだが」
 イタケーの事を考えれば願っても叶わぬほどの条件であった。ラエルテスを通してきた話ならば、本人の承諾など全くなしに決まってしまうだろう縁談だった。
 オデュッセウス自身考えた事の無かった事だが、いずれどこぞの姫を娶らぬわけにはいかぬのである。
「……一日、考えさせて頂けますか」
「おお、おお、よく考えてくれたまえ!」
 一縷の望みを得たイーカリオスは、眼前の青年の手を握って振った。

 オデュッセウスの前にアテナが微笑んで立っていた。オデュッセウスが膝をついて礼をとろうとした時、アテナの背後に男が立っていることに気付いた。
 男は、あろうことか、腕を回して背後からアテナを抱きすくめた。
……何をする!
 静止しようとした瞬間、オデュッセウスは強固な鎖に絡め捕られたかのように身動きができなくなり、声も喉に張り付いて出て来なかった。
 男はヘファイストスだった。
 女神は男神の腕に背を持たせかけている。
……お止め下さい!
 ヘファイストスがアテナの喉に口づけると、男神の髪が女神の白い胸に流れ落ちる。
 女神が押し抱くように男神の頭に腕を回す。
「アテナ様!」
 声が出たと同時にアテナとヘファイストスの裸身は掻き消え、暗がりの中に見慣れた天井があった。
 肩で息をしながら、オデュッセウスは周囲を見回した。自室に間違いない。
 夢であった事を悟って、ふらつきながら立ち上がる。
 湯でなく、冷水を浴びたが、熱が冷める気配は無かった。目を閉じるとアテナとヘファイストスの姿が浮かぶ。
 激しく頭を振ると、濡れた髪から水滴が飛び散った。
 眠る事を諦め、チェニックを被ると外へ出た。
 夜風に濡れた髪がひどく冷えたが、体の中の炎が消える様子は無い。
 岸壁近くへ出ると、人影が見えた。
 振り返ったのはヘファイストスであった。
 オデュッセウスの体が硬直する。
「オデュッセウスか」
 神は柔和に微笑んだ。
「縁談があったそうだな。まだ子供だと思っていたが……。早いものだ」
 立ち尽くす青年の無礼を咎める事も無く、神は話し掛ける。
「トリートゲネイアも言っていた。まこと、お前の時間は直ぐに私に追い付き、そして追い越して行くのだと」
 その言葉に、炎の中から氷片が結晶し始めた。
 初めてアテナにまみえた時から、オデュッセウスの背がアテナのそれを越えた今も、女神の美貌は微塵の翳りも無い。
 老いた父が、故郷で日毎語った黄金の女神と寸分変わらぬ姿のままだった。
「人生の大事だ、眠れぬのも分かるが、体を壊さぬ様にな」
 ヘファイストスは踵を返した。
 神には分かっていた。
 何故青年が濡れた髪をして夜更けに徘徊しているのか。
 そう、トリートゲネイアは私の妻だ。
 オデュッセウスの心の中にも、ヘファイストスの言葉がよみがえった。
 神は青年に背を向けたまま、
「婚礼の引き出物をやろう」
と言いやると、暗闇に溶けた。
 翌朝、オデュッセウスはイーカリオスの申し出を承諾し、欣喜する王とともに、花嫁の国に向かう事になった。



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