自分を得た時に手に入る富を見せても動じず、手を出す事もしないオデュッセウスに、ナウシカは誠実さを感じ、惹かれた。
今までナウシカに求婚する者は、パイアケスの富と権力を見て、心を動かさぬ者はなかったのだ。一度も顔を見た事が無い者すらナウシカに求婚していた。
ナウシカが美しくない訳ではないが、パイアケス人は余りにも富んで強大だった。
どの求婚者も『パイアケスの王女』としてでなければ求婚しなかっただろうと、ナウシカは思っていたのだ。
だが、オデュッセウスは違う。
彼の言う通り、その気になれば、彼は、宝物倉でナウシカを凌辱しそれを公にしさえすれば、この国の王位を手に入れる事すらできただろう。それを知っていてしなかった。
ナウシカは、ある決心を胸に、王妃の居室に向かった。
「お母様、私、あの旅の方の妻になりとうございます」
「まあ!何て事を!」
当然ながら、王妃は蒼白になった。
「まさか、何かされたのですか!」
王妃は軽はずみな自分の娘が、名も知らぬ旅人に乱暴されたのかと思ったのだ。
「いいえ。あの方はそんな方ではありませんわ」
母の膝に頬を乗せて、王女はうっとりと言う。
王女は旅人の誠実さを、母に話した。
溜息混じりに娘の話を王妃は聞いていた。
確かに他の求婚者に、全く野心が無いという事は有り得なかった。
ナウシカと結婚さえしてしまえば、幾らでも妾を囲う位の事はできるのだ。本人がそのつもりが無かったとしても、妾を志願する女も列を成すだろう。その誘惑に耐える男は多くはない。
少し娘の婿とするには年嵩ではあるが、いっそのこと、ああいう男の方が良いのかもしれないとすら思い始めていた。
思慮分別もあり、立居振舞も品がある。彼が王となったなら、更にこの国は栄えるだろうと思われた。
こんな所へ独りで旅をしているという事は、妻どころか家族も有るまいと思われる。
だが、まだ彼は名乗っていない。
「貴女の気持ちは分かりました。ではあの方が何方なのかを訊ねる事にいたしましょう」
今宵は宴に参するように、と母に言われ、ナウシカは侍女に手伝わせ、念入りに着飾り、結い上げた髪に花を飾った。
装いを凝らして日没を待つが、王女は落ち着かず、中庭へ出た。
薄闇の中に背の高い人影があった。
ナウシカの心臓が跳ね上がった。
オデュッセウスだった。
ナウシカはふらつきながらオデュッセウスに歩み寄る。
「ごきげんよう、殿下」
オデュッセウスは頭を下げ、再び頭を上げた途端、ナウシカが胸の中に飛び込んできた。
目の眩む様な若さだった。
胸の中で、自分の物かとさえ思えるほど、ナウシカの動悸が伝わった。
その肩を抱こうとして、オデュッセウスの鼻腔に、涼やかな花の香が入った。
ナウシカの髪を飾るその花を、オデュッセウスは知っていた。
……”こんにちは、旅の方”
……”私がアテナだ、オデュッセウス”
初めてアテナに会った時の、篭に摘まれていた花だった。
一度は上げた腕を下ろし、オデュッセウスはナウシカの体を引き剥がした。
「ご気分でもお悪いのですか」
ナウシカの気持ちに気付かぬ振りをして、オデュッセウスは冷静に言った。
ナウシカも涙ぐんだ顔を背けて、声だけは努めて冷静に言う。
「いいえ、いいえ、大丈夫です。申し訳ありません」
ナウシカは小走りで去った。
何て事をしてしまったのだろう。はしたないとは思われなかったろうか。
それでも、ナウシカは、王女であることにオデュッセウスが臆しているのだと考えていた。
王妃の隣に席を設え、ナウシカはまだ、赤い頬をしていた。
宴の広間に入ってくると、オデュッセウスは、王に頭を下げた。
「ご厚情を賜り、有難うございました。旅の身なれば、ご恩に何一つ報いる事も叶いませんが、これでお暇させていただきます」
ナウシカは思わず立ち上がった。
王も王妃もいきなりな言葉に、驚いて、制止する。
「こんな夜に何を仰る。幾らお急ぎであっても、夜道を行かれようとは無謀過ぎましょう。剣の一振りもお持ちになり、明朝ご出立なさるが宜しいでしょう」
「左様でございます。こんな日も暮れてから出立させたとあっては、パイアケス人のなんと非情よと言われましょう。我らの顔を立てると思し召し、思い留まりませ」
「いいえ」
涙をこぼさんばかりになって立ち尽くす王女の方を一瞥もせず、オデュッセウスは言った。
「今宵は幸いにして、明月もあります。狼に裂かれたとしてもそれは運命でございましょう」
膝をつき、再度王と王妃に礼をすると、オデュッセウスは外へ向かって歩き出してしまった。
呆気に取られて立っていたが、直ぐに我に変えると、王と王妃はオデュッセウスを追いかけた。
王宮の正面の階段を下りようとしている所で追い着き、声を掛けた。
「せめて、せめて御名を仰って下さい」
「……イタケーの……ラエルテスの子、オデュッセウスです」
「おお……、先の戦役の英雄であったか……」
と、オデュッセウスの足が止まった。
王がその視線の先を見ると、敷き詰められた白い礫を踏んで、若い女性の姿が有った。
たとえ王宮に向かう道であったとしても、独りで女性が夜道を来るなど、正気の沙汰ではなかった。
だが、その女性は、月の光を弾きながら、花を敷き詰めた広間を歩くかのように、優雅に歩き進んだ。
オデュッセウスが崩れるように膝を落とし、敷石に額をつける。
例え、老婆の姿をしていても、オデュッセウスが間違える筈は無かった。
女性はオデュッセウスの前に立った。
「お……久しゅうござい……ます……我がクリュセ……、アテナ様」
王らは一瞬硬直し、立っているのが誰なのか分かって、慌てて階段を下りて平伏した。
神でもなければ、夜道をあのなりで来られる筈は無かったのだ。
アテナは膝を折って、オデュッセウスの肩に触れた。
平伏するオデュッセウスの目には、自分の節くれて老いた手が映った。
自分はこれほど老いたのに、アテナは最初に会った時と変わりない美しさで微笑んでいた。
老いた自分の姿を見られるのが恐ろしく、オデュッセウスは震えて、顔を上げる事ができなかった。
だがアテナは。
「久しかったな。お前は少しも変わらぬので、年月の経つのを忘れていた」
オデュッセウスの涙が敷石を濡らした。
「どうした、立てぬのか」
アテナの白い指がオデュッセウスの赤い髪を掻き回した。
ようやくオデュッセウスが顔を上げた。
「お前の息子に会ったぞ。そうだな、息子が立派な青年になっているのだから、時間の経っているのが当然だな」
「アテナ様」
「お前には直答を許していた筈だぞ」
オデュッセウスは体を起こして、アテナを見上げた。
アテナは怒ってはいなかった。
そして、この薄汚れた魂を「変わらない」と言って貰えたそれだけで、オデュッセウスは死んでも良いとさえ思った。
だから。
「私を捜しに御越しになられたのでしょうか」
「そうだ」
「お手数をお掛け致しました。このまま、イタケーへ向かいます」
帰ろうと思った。
アテナを悲しませてはならない。
「では、送ってやろう」
アテナは立ち上がり、視線を上げた。
その先には、ナウシカが呆けた様に立っていた。
アテナは階段を上がり、ナウシカの前に立った。
王は気付いて、娘に控えるよう声を掛けたが、娘の耳には届かなかった。不遜な態度を罰せられるのではと思い、王は恐怖に目を閉じた。
「お前がナウシカか」
ナウシカは返事ができなかった。
思いを寄せた男は、この地にさえ響く貞女を妻とする者の名を名乗った。
そして、その男が本当に愛しているのが、目の前に現れたこの女性だと言う事は、火を見るよりも明らかであった。
そう、この人は私など、決して愛したりしない。
涙さえ出なかった。
「オデュッセウスを助けてくれたのだな」
恋の痛みに鈍感だと言われるアテナですら、今のナウシカが、カリプソと、雨の中をやってきたペネロペと同じ感情に支配されている事は分かった。
アテナは髪から落ちそうになっている花を直してやり、ナウシカの頬を撫でた。
「有難う」
アテナは振り向き、階段を下りた。
立ち上がったオデュッセウスが、頭を下げ、そして、アテナの後ろについて歩き出した。