外伝 オデッセイア9


 アテナに姿を見られたくない一心で、オデュッセウスはオギュギエを出たものの、それでもイタケーへ帰ろうとは思わなかった。
 海が荒れただの難破しただのと言っても、余りにも時間が経ち過ぎていた。
 野の花が風に震える様な風情だった、深窓に育ったペネロペが、アテナをなじったと言うのは、オデュッセウスには想像のつかないことだった。
 それ程の年月。
 テレマコスも無事育っていれば青年になっているだろう。オデュッセウスがペネロペと結婚した歳を越えている筈だった。
 老いたる父母はどうしているだろう。
 帰ったとて、どんな顔をすればいいのか。
 進路の指示を求める船員たちに、オデュッセウスは適当な事を言い、見えた陸地に船をつけさせた。
 オギュギエに戻るよう指示し、うろたえる乗員を見向きもせず地に降り、一振りの剣も持たずに、そのまま前に向かって歩き出した。
 此処に隠れても、神々は直ぐオデュッセウスを見つけるだろうと言うことは分かっていた。ただ、言い訳の為の時間が欲しかった。いずれ、アテナ神はオデュッセウスの前に降り立つのだ。その時に不様な姿は見せたくなかった。
 ヘファイストスの言葉が凝って、胸の中の氷片を蘇らせていた。
 だがそれも、カリプソの腕の中では全身を侵食し、心を凍りつかせていたのだ。
 氷片は消えていた訳では無かったのだ。
 触れる事はおろか、愛を告げる事すら叶わない女神を、オデュッセウスの魂は望み続けていたのだった。
 オデュッセウスはいつしか走り出していた。
 然程鍛錬をしていた訳ではないその体は、直ぐに息が上がり、脚は軋むように重くなった。
 だがそれでも、走った。
 アテナ神の菫色の瞳が灰色に曇るのを思い浮かべると、全身の血液が内側から血管に歯を立て、オデュッセウスを苛んだ。
 重い脚が縺れて、転んだ。
 いくら吸っても胸に空気が入って来ないかのようだった。喘ぎながら立って、川の水を飲もうとして、落ちた。
 川は幸いにして浅く緩やかで、咳き込みながらオデュッセウスは立ち上がった。
 若い女性たちの悲鳴が上がった。
 声の方を見やると、得体の知れない男の出現に驚いただけらしく、手に色とりどりの衣服や染め糸を持った女性達が下流側に立っていた。
「……ああ、申し訳ない。水を汚しました」
 ふらふらと川から出ようとして、流れに足を取られて、オデュッセウスは尻餅をついた。
 一人勇敢にも近づき、亜麻色の髪をした女性が声を掛けた。
ビショビショ「大丈夫ですか」
「ええ、また水を汚してしまった。糸の染めは大丈夫でしたか」
「そんな事は大丈夫ですが、お怪我をなさったのでは」
「いや、いくら何でもそこまで柔にはできておりますまい」
 オデュッセウスはようやく流れから出て、草の上に立った。
 チェニックは濡れているだけだったが、鞋は流されてしまったらしい。
「旅の方とお見受けいたしますが、そのままではお風邪を召しましょう。濡れた物をお脱ぎになって、こちらを掛けておいでになりませ」
 乙女は一枚の織物をオデュッセウスの足元に置いて、後ろを向く。今の内に脱げと言う事だろう。
 オデュッセウスは素直に、服を脱ぎ、絞って体を拭き、乙女に渡された乾いた布を羽織った。
「ありがとうございます」
「いいえ」
 乙女は連れに向かって歩き出した。
「どちらにお返しに上がれば宜しいか」
「私は王女のナウシカです。王宮にお出でなさいませ」
 ナウシカは連れの者に取り囲まれて、引っ張られるようにして、立ち去った。
 あからさまに怪しい男に対して、王女にしては軽はずみな行動を咎められているらしかった。
 旅人は歓待されるが、こんな町から離れた所ではどんな事をされるか分かったものではない。軽率と言われても仕方の無い行動だった。
 立ち去る後姿に礼をして、オデュッセウスは日の当たる位置に濡れた衣服を広げた。
 羽織った布は細かい刺繍のされた上等な物だった。これしか乾いた物が無かったに違いない。
 返しに行かずに済む物ではなかった。
 鞋を購うにも持ち物は何も無い。
 乾いたチェニックを着て、貸し与えられた布を畳むと、オデュッセウスは嘆息してナウシカ達の立ち去った方角に向かって歩き出した。
 町につき、人に聞いて王宮を訪ねた時には、日が暮れかかっていた。

 ナウシカは心が揺れ動いていた。
 昼間見た男は、広い肩をしていた。
 年を経た分だったのかもしれないが、落ち着きがあり、彼女への求婚者達より頼もしく感じられた。
 ……来るだろうか、此処へ。
 広間の方がざわつき始めた。居ても立っても居られず、ナウシカは広間の方へ小走りで進み、戸口の陰からそっと覗き込んだ。
 ……来た……!
 裸足なのは仕方なかったが、衣服も髪も乾いて、先程よりも凛々しく見えた。
 裸足故に咎められそうになり、だが手にした織物が手形になったようだ。そのまま進んでくる。
 戸の陰に隠れて、ナウシカは動悸を静めようと深く呼吸をした。
「旅のお方とお見受けする」
 父たる王、アルキノオスが見つけて、声を掛けた。
「いかにも」
 男は臆することなく返答した。
 求婚者達ではこうはいかないだろう。王女は頬を紅潮させた。
「したが、鞋はどうなさった」
「昼間川に落ち、流されてしまいました。購うにも何も持たず、仕方なく無礼を承知で裸足で参りました」
「手にお持ちの物を売ろうとは思いませなんだか」
「これ程の物を私が売ろうとすれば盗品と思われるのが関の山、買えるのも王宮の方々位、ましてやこれはお借りした物、売る事はできますまい」
「借りた……?」
 不審な顔をする王の前に進み、オデュッセウスは膝をつき、布を差し出した。
「アルキノオス様とお見受けいたします。ご息女様よりお借りいたした。お返しに参上いたしました」
 王の足元に布を置くと、オデュッセウスは後ろを向いて、すたすたと出て行こうとする。王は慌てて止めた。
「旅の方、お待ち下さい。私の宮に訪ね来た方を、裸足のままお返ししたとあっては、このアルキノオスが笑われましょう。私の顔をお立て頂いて、少々お待ち頂けまいか。新しい衣装と鞋をお受け願いたい」
 オデュッセウスは一瞬迷惑そうな顔をし、それでも王を振り返り、頭を下げた。
「有難うございます」
 王は王妃との間に席を作らせ、オデュッセウスを座らせた。
「私の娘にこれを借りたと仰ったが」
「ナウシカ様と名乗っておいででしたが」
 確かに見覚えはあった。
「今日は昼のうちに、豪奢な薔薇色の帆を張った船が近くを航行していたと聞きましたが、貴方はそれでいらしたのか」
「ええ、そうです」
「確かあれはオギュギエの……」
「カリプソの物です」
「川に落ちたと?」
「そうです」
 川に落ちて、鞋だけでなく、他の物なども流されたのだと王は思った。
「それはお困りだったでしょうに、どうしてナウシカはその事を言わなかったのでしょう」
 王妃が申し訳なさそうに言った。
 その時が今よりも更に怪しい風体だったとは言えず、オデュッセウスは苦笑した。
「妙齢の女性は怪しげな男を連れ歩かないものですよ」
「旅の方、衣装をお整えするまでに、旅のお話でもしては頂けまいか」
 それは旅人が歓待される理由でもあり、その為の代価でもある。
 そのままの事を話す訳にもいかず、オデュッセウスは適当に脚色しながら話した。
 やがて衣装と鞋の用意ができ、別室で新しいチェニックと鞋を履き、髪をまとめると、何処かの領主と名乗っても不思議でない姿になった。
 他の客は帰ってしまっていたが、王は部屋を用意させ、更に明日も話を続けるようにと、オデュッセウスに依頼した。

 次の日も宴での話を所望されたオデュッセウスは、黙って立ち去るわけにも行かず、仕方なく、王宮の周囲を歩き回っていた。
 ナウシカは周囲に人影がなくなると、偶然を装い、声を掛けた。朝からずっと陰に隠れて付いて回っていたのだ。
 中を案内すると言って、有無を言わさず歩き出す。
 どうやらこの王女はかなり好奇心が強いようだ。仕方なく、オデュッセウスは素直に従って歩いた。
 ナウシカは頬を紅潮させ、オデュッセウスが辞退するのも聞かず、宝物倉まで開けさせ、中を見せた。
「私が悪人で、何かを盗んで逃げたらどうなさいますか」
「貴方がそんな事をなさる筈ありませんわ」
 ナウシカは微笑する。
「助けて頂いておいてこんな事を申し上げるのもどうかとは思いますが、あんな町から離れた所で、見知らぬ男が現れたら姿をお隠しになった方が良いでしょう。誘拐されておしまいになったらどうなさるのですか」
 戦場にて、飢えた兵卒たちが征服した町の品物や婦女子を略奪する様を見てきたオデュッセウスは、ナウシカの軽率さに助けられたとは言え、かなり気を揉んでいた。この富んだ国の王女たる者がこんな事では、近隣に狙われて人質に取られてしまうかもしれない。
 小国の王族として気を張っているよう育ったオデュッセウスには、ナウシカの鷹揚さが理解できなかった。
 だがナウシカは、自分が目の前の男に略奪される様を思い、更に頬を赤らめた。
 オデュッセウスは眉間に皺を寄せて、ナウシカの腕を掴んで倉の外に出た。
「こんな所に見知らぬ男とふたりきりになるものではありません!」
 ナウシカは、その腕を掴む手の力強さに陶然となっていた。
 倉の外に出ると礼をして走り去るオデュッセウスの後姿を、ナウシカは潤んだ目で見送った。



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