外伝 オデッセイア11


「イタケーはどうなっておりますか」
 パイアケスの国が見えなくなってから、オデュッセウスはためらいがちにアテナに尋ねた。
「……良くは無いな」
 女神は重く言った。
「お前の母は亡くなった。父は臥せっていた様だ。余り長居ができなかったのでな、テレマコスに会っただけだ」
 女神はテレマコスの父への疑念を思い起こし、視線を落とした。
「ペネロペは……どうしておりますか」
 オデュッセウスは遂にこの質問を搾り出した。
 他の男と良い仲になったとしても、仕方ない事だと思ってはいた。自分も他の女を抱いたのだ。
 女神はオデュッセウスの方を見ずに答えた。
「私の巫女をつけてある。少なくとも死んだり、他の男に手込にされるような事は無い筈だ」
「……他の男……に手込に……とは」
「ペネロペには今の所、求婚者が一二九人いる」
 想像もしえない求婚者の数だった。
 かの戦争の元になったヘレネでさえ、そんな数にはならなかった筈だ。
 その競争率では、出し抜く為に、獣の如き振る舞いに出る者も有り得る。
 そして、それは、ペネロペが頑として他の男を受け容れなかったという事でもあった。
「さて、どうしたものかな」
 アテナは胸の下で腕を組んで、オデュッセウスを眺めた。
 気付いて、オデュッセウスは赤面し、俯いた。
 動悸がひどかった。
 アテナの神居で、皆が頬を上気させていたのを思い出した。
 アテナの言う通り、あの頃とまるで変わらぬかのようだった。
「イタケーの浜に降ろしてやろう。お前は自分の足でお前の館へ歩いて行かなければならない。だが、今お前の館は飢えた獅子や狼の巣になっているからな。その姿で入ってはまずかろう」
「狼の巣……」
 アテナは厳しい目をしてオデュッセウスに言った。
「お前の妻子は、その狼の巣の中にずっといたのだということを忘れるなよ」
 オデュッセウスの胸が痛んだ。
 剣を振るどころか、持ち上げる事すらできないであろうペネロペは、その中で二〇年怯えていたのだろうか。
 アテナは一度神居に寄る事にした。
 出迎えた巫女達は頭を下げてから、
「イタケーのオデュッセウス様でございますね」
と、名乗らぬうちに言った。
「やはり、な」
 アテナは嘆息して言った。
「なぜ、この男をオデュッセウスと思うのだね?」
「旦那様がこちらにお連れになられる方で、赤い髪の偉丈夫でございますもの」
「では、やはり髪位は何とかせねばなるまいな」
 アテナはイヤリングを外して、巫女に投げるように渡す。
「濡れても落ちない程度に髪の色を変えてやれ。後は任す」
 そのまま、アテナは去り、巫女数人がオデュッセウスを取り囲む。
 アテナが先日のケープを身につけて現れた時には、オデュッセウスの髪は灰色混じりの黄色になっていた。
 オデュッセウスには何をつけられたのか分からなかったが、皮膚の上にも細工をされて、かさつきと皺が出ていた。
「旦那様、これでよろしゅうございますか」
「その肌も水が掛かっても大丈夫なんだな」
「もちろんですわ」
 アテナは微笑んで、オデュッセウスを促した。
「では、参るぞ」
「旦那様、この間のように、御髪を傷める事はおやめ下さいませ」
「なるべくそうしよう」
「旦那様!」
 後ろで巫女達が泣きそうな顔をしたが、アテナは行ってしまった。

 アテナ達はイタケーの浜に降りた。
「お前は独りで行くのだ。だが、勿論、そんななりをさせた事から分かってはいるだろうが、いきなり行って名乗ろうものなら、お前でも殺されてしまうだろう」
 オデュッセウスは頷く。
「先ず、お前がいない間にお前の妻子がどんな目に遭っていたのかを良く見ておいで」
 敵意を見せただけで襲われる可能性が強いと見て、アテナはオデュッセウスに、短剣すら与えなかった。
 オデュッセウスは街中を徘徊した。
 その雑踏の中で、人々の話す声を聞いた。それだけで、求婚者たちがどれほどの権勢を持ってイタケーを支配してしまっているのかは窺い知れた。
 そして、それでも彼等がオデュッセウスの影に怯えている事も。
 求婚者たちがお互いを害せず、抜け駆けもしないでいるのは、彼等にオデュッセウスという共通の敵があるからだった。オデュッセウスの死を確認したなら、直ぐにでも彼等は殺し合いを始めていただろう。
 アテナの巫女がついているという事であれば、一刻を争う必要はない。オデュッセウスは情報を収集する事を決め、館へは裏から入る事にした。
 アテナは浜でオデュッセウスを見送ってから、改めてケープを付け直した。
 出掛けの巫女の言葉を思って、一旦は躊躇したが、前回と余りに違う容貌だとテレマコスに見分けられぬと考えて、心の中で巫女に詫びつつ、またしても塩を含んだ砂を被った。
 軽く頭を振り、アテナは真っ直ぐ王館へ向かった。
 相変わらず、求婚者達は己の館にいるかのごとく振舞い、主人たるべきテレマコスは末席にて、溜息をついていた。
 郷士達を召集し、その傍若無人を改めるよう進言したが、アンティノオスらに逆にやり込められてしまったのだった。
 如何したものかと思案している所に、アテナの姿が目に入った。
 駆け寄ってひれ伏し、助けを求めたいと思う心を抑え、テレマコスは周囲に動悸を見抜かれぬようゆっくりと立ち上がり、アテナに歩み寄った。
 アテナは先に頭を下げた。
「先日はありがとうございました」
「いいえ。こちらこそ、色々なお話を伺わせて頂きました」
 畏れつつ、それでも何気なさを必死で装い、テレマコスはアテナに合わせた。
「喜んで頂けたのならば何よりです。そこで、と申し上げては何ですが、今宵庇をお借りいたしても宜しいでしょうか」
「それはもう、勿論です。どうぞこちらへ」
 テレマコスのぎこちなさは気付かれる事なく、何とか求婚者達の目から二人は隠れた。
 周囲の目が無くなると、テレマコスは跪こうとしたが、アテナはそれを制止し、ペネロペの元へ案内するよう言った。
 誰何する声に息子が答えると、ペネロペはおずおずと扉を開けた。だが、その後ろに立つ少年の姿を見ると、再び扉を閉じようとしたのを何とか息子に説得されて、二人を部屋に招きいれた。
「まあ、旦那様、またそんな姿をなさっていらっしゃったのですか」
 クレオパトラはアテナの姿を見て、呆れたように言った。
「しかたあるまい。違う姿ではテレマコスに分かって貰えないかもしれんだろう」
 クレオパトラの様子に、ようやくそれが少年ではなくアテナである事に気付き、ペネロペは平伏した。
「言うた通り、慮外な事はしていないようだな。私も約束通り、お前の夫を連れて来たぞ」
 ペネロペは思わず顔を上げる。
「今はお前の見知った姿ではないが、三日もせずにこの館へ戻ろう」
「それまで、こちらにお留まり頂く訳には参りませんか」
 クレオパトラも口を添え、声をひそめて言った。
「奥方様の侍女の中に、あちら側の者が混じっているようなのです」
 ラエルテスの衣装を織っては解くと言うのを、クレオパトラの提案で始めたところ、程なく求婚者達に知られてしまったのだ。
 ペネロペの侍女は殆どが実家より付いてきた者だっただけに、裏切られた思いが強く、ペネロペはクレオパトラのみを部屋に侍らせているのだった。
「だが私が男のなりで、この部屋に入り浸っておれば、また要らぬ噂も立とうぞ」
急な頭痛 アテナはふと考え、
「私は女占者として、もう一度来よう。夜には間に合うだろう」
と言い残し、部屋を出て行った。
「そうですわね、占い師ならば成り行きに口を挟んでも、不審には思われますまいし」
 クレオパトラはにっこり微笑んで、ペネロペを安堵させた。


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