疾き風

 それは貞光を託された時に、一緒に渡された物だった。
 貞光も含め、託されたと言うより、押しつけられた、と言うのが正しいような物だったが。
 厳重に結界を張っておいたし、式も置いて見張っていたはずだったが、ある日帰ってくると、貞光はそれを抱えていた。
 それは『疾き風』と呼ばれていた、巨大な鎌だった。
 水晶のように触るとひんやりして、保管していた蔵の中さえ冷気に満ちていたほどだったが、貞光は気にならないらしい。
 そもそも里の男達が車に乗せてようやっと持ち出してきた物を、幼い貞光は一人で濡れ縁まで持ってきたのか。
 その重さは水の気の重さなのだ。
「晴明様、これを妾にくださいませ」
 普段表情の乏しい貞光が、にこにこしてねだった。
「それは元々お前の物です」
 それを聞いた貞光は、ぱっと顔を輝かせて、晴明の背よりも長い疾き風を掴んでふわりと庭に飛び降りた。
「うふふ」
 まるで重さなど感じないようだ。
 貞光がそれを振り回すと、夏の日照りに乾ききった庭草が風に揺れ、白露を結び、きらきらと日差しを弾き返した。
 独楽のように何度も回る貞光の足下には、いつのまにか霜が降りている。
 里人達は気付いているだろうか。
 自分達が忌み怖れた女童と、この祭器の力が里の清冽な水の流れを守っていたことに。
「晴明様、これでこの次は妾も一緒にお連れくださいますか?」
「貞光……」
 邸の外は妖鬼の跋扈する所。
 貞光の水の気に、惹かれ寄る妖鬼も少なくなかろう。
 知らず、嘆息していた。
 もしや、この子は私のたどり得ない「普通」の人生を歩むこともできるのではないかとも夢想したのだけれど。
「外には妖鬼どもが無数におるのですよ」
「でも、独りで晴明様のお帰りを待つのは嫌でございます」
 いつもの人形のような表情だが、貞光の声は少し震えている。
 左目から作った白珠。
 それではもう妖鬼達をくい止めることはできなかった。
 腕を切り落としてもう一つ珠を作ろうとして、季武に制止された。
 故に我が神の尾の一つを奪い、新しい珠を作って据えて帰ってきた。
 その間が、それほど寂しかったのか。
「独り残されるのは、そんなに嫌ですか」
「……嫌でございます」
「では、お前も巫術を知らねばなりません」
「それはこの爺に任せるが良かろう」
 季武は貞光に言った後、私の方を向いた。
「そなたは休め」
「季武……」
「人はまだそなたに縋らねばならぬ。ならば休め」
 そう、私は疲れていた。
 如何に不意を突く事ができたとは言え、我が神を襲いてようよう逃げ帰ったのだ。
「貞光、季武の言うことを良く聞くのですよ」
「はい」
 確かに木の気を強く宿した季武ならば、水の気の捌き方をよく教えることができるだろう。
「独り残されるのは嫌……か」
 朝廷の最奥の書庫で見つけた記録を広げる。
 瓦解した結界を戻した『源』の巫術師。
 望むべくもない『死』を紡ぐ一族。
 それは一度は火中に投じられたのだろう、多くは灰になり、僅かが炭となっていて、ここまで読みとるのに数年かかった。
 名さえ知れなければ、黄泉でも探しようがない。
 書自体が闇のように黒くなってしまっていて、疲れていた私はうたた寝をしていたようだった。
 夢に落ちる寸前、ただ独りで妖鬼怨念の中、朧月橋を渡る巫術師の事が思い出された。
 いや、既に夢だったのかも知れない。
 あの巫術師が居たのなら、私にあの力があったならと、逃げ惑う民草を見つつ何度思ったことか。
 だがあれから千年が経とうとしている。
 あの巫術師が生きていようはずもなく、そしてその力を継いだ者さえ見あたらない。
 妖鬼を調伏に行ったまま、道満は帰ってこない。
 炭化した闇の中に、『光』という文字が読み取れた。
 貞光には、光の中を歩かせてやりたかった。
「望むべくもないことなのか……」
 夢か現実にか、私はそう呟いていた。
 多分、それは夢であろう。  

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