無理からぬ事ではあるが、貞光は泣いてばかりいた。
 年端のいかぬ幼子が、いきなり見知らぬ所に連れられてきたのである。
 さすがに天の麓の庵にヒトの子である貞光を置くわけには行かず、貞光の為に、晴明は地上に屋敷を設えた。
 貞光は、最初の内
「帰して下さりませ」
といって泣き、外へ飛び出した。
「とと様、かか様、もうわがままは申しませぬ。貞をおうちに置いて下さりませ」
 無論予め張ってあった晴明の結界から出られる筈もなく、弾かれて転んだ貞光は、外に向かって声を上げた。
「もう誰が見えるとも言いませぬ! 帰して下さりませ!」
 水の気を辿るのか、清流の流れる方、泉の湧く方を向いて、貞光は泣き続けた。
 その痛ましい声を、辛かったが晴明は黙って聞いていた。
 泣き疲れて寝入った所を、晴明が抱き上げて屋敷へ戻る事が続いた。
 桜の咲く前に連れてこられた貞光も、山吹の花が散る頃には、帰れないのだと理解したようだった。
 が、今度は父母に棄てられた事を理解し、やはり泣き続けていた。
 掛ける言葉の無かった晴明は、辛抱強く貞光の傍に居て、その様子を見守っていた。
 泣き続けたあげく、遂に貞光は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を上げて、晴明の顔を見た。
「……貴女はどなた?」
 村里から連れ帰ってから、一月以上。貞光は遂に晴明に名を尋ねた。
「晴明です、貞光」
「……晴明様」
 しゃくりあげたまま、貞光は晴明を見上げた。
 晴明は手布で貞光の顔を拭いてやり、最後に濡れた別の手布で貞光の顔を綺麗に拭った。
 乱れた髪を梳いてやり、貞光の小さな手も拭いてやった。
 初めて貞光は、村の者達と全く違う、晴明の指の白さと滑らかさに気付いて、見とれた。
 木の下でうずくまって寝てしまった時に、抱き上げてくれた手。
 髪に付いた木の葉を取り、撫でていてくれた手。
 そして晴明の顔を見つめて尋ねた。
「晴明様、晴明様の左のお目はどうなさったのですか?」
 村にいた猫が、時折片目が開かないまま歩いていたのを思い出した貞光は、手桶の縁に掛けられた手布を取った。
「貞が拭けば、猫も目が開きましたよ。晴明様も拭いて差し上げましょう」
 晴明は微笑して、貞光の頭を撫でた。
「私の此の目は開かないのです」
 貞光の手の手布も取り、桶を持って晴明は立ち上がった。
「泣き過ぎたものですから、左目は無くなってしまったのですよ」
 貞光は驚いて、息を詰めた。
 慌てて片目ずつ小さな掌で隠して、晴明の後ろ姿を見る。
 晴明が戻って来た時も、まだ片目ずつ交互に隠し、天井やら、庭やらを見て、自分の両目が在る事を確かめていた。
「大丈夫、貴方には両目とも在りますよ」
 その声に貞光は振り向き、両目で晴明の顔を見た。
「泣いていると目が無くなってしまうのですか? ならば、もう妾は泣きませぬ」
 晴明はくすりと笑って貞光を抱き上げた。
「晴明様はそんなに泣いていらしたのですか?」
 晴明は笑うだけで、それには答えなかった。
「泣き止んだのなら、貴方には覚えて置かなければならないことがあります」
 晴明は小さな文机の前に貞光を座らせ、紙と筆を執った。
 晴明が書いたのは、貞光の名だった。
「貞光、良いですか。これが貴方の名です。貴方が貴方である為には、忘れてはいけないことです」
「さだ、みつ」
 声を出して、貞光は二つの文字を辿った。
「そう。さだ、みつ」
 晴明は貞光の右手を握って、一緒にその文字をなぞった。
「……晴明様、晴明様のお名は、どう書くのですか?」
 もう一枚取った紙に、晴明は己の名を書いた。
「せい、めい」
 貞光は、晴明の名も、辿ってみた。
「晴明様のお名には、目が二つ在ります」
 貞光は『日』を指して、言った。
「それは目ではなく、日ですよ。目はこう」
 晴明はまた別の所に、目という文字を書いた。
「晴明様は、お名にお日様を二つもお持ちだから、光るようなのですね」
 泣き腫らした為か、貞光は眩しそうに晴明を見た。
「ふふ、貞光、貴方の名前こそ、ここに光が在りますよ」
「それは、みつ、でござりましょう?」
「そうですよ、貞光の光は、光という文字なのですよ」
「ひかり」
「さだ、は、じょう、てい。惑うことなく、正しい、という事です」
 貞光は、自分の名より晴明の名の方が気になるようだった。
「では、晴明様の、此の字は、何というのですか」
「セイは晴れ、メイは明るいという文字です」
 更に貞光は、それぞれの文字の形の意味を尋ねた。
「晴明様の字の、お日様じゃない方は何なのですか?」
「セイのつくりは青」
「晴れの日の、お空の色でございますね!」
 ようやく涙のひっこんだ貞光は、笑顔で『明』の文字を指した。
「ではこちらは?」
 口を開き掛け、晴明が突かれたように声を失った。
――月――
 それは月という文字だった。
 晴明の名に穿たれた、宿命。
 力を振り絞り、晴明は笑顔で答えた。
「それは月です」
 貞光は、いつも晴明に撫でてもらっている間、夢の中で月光に照らされていた事を思い出した。
「お月様でございますね。 晴明様の右のお目は、お月様のようですもの」
 笑顔を維持することは出来たものの、晴明は指が痛むほど冷えるのを抑えることは出来なかった。
「お月様と同じ光です。ひかりは、貞光のみつ」
 貞光は「光」という文字を指で何度もなぞって見せた。
 晴明は、完璧に隠しおおせているつもりだった。
 これが魂を統べる、貞光の力。
「晴明様?」
 貞光は晴明を見上げて、首を傾げた。
「……晴明様、何故泣かれるのですか? 泣いては右のお目も無くなってしまいますよ」
「泣いてなど居りません」
 泣いてなどいない。涙はとっくに枯れている。
 それでも動揺の余り、晴明の声は震えていた。
「あ」
 貞光は瞬きをして、もう一度晴明の顔を見て、また首を傾げた。
「まことでございますね。見間違ったのでございましょうか」
 勿論、晴明の白い頬に、涙の跡などは無かった。
「晴明様」
 様子の変化に不安を感じた貞光は、晴明の袖を掴んだ。
「御免下りませ」
 貞光の手は震えていた。
「何故謝るのですか?」
「もう申しませぬ、お許し下さりませ」
 今日までずっと、泣いてばかりいて、貞光は晴明の言葉に耳を貸さなかった事を思い出した。
 親に棄てられたばかりの貞光は、不用意なことを言ったのだと察し、今度は晴明にも棄てられる、と怯えたのだ。
「貞光」
 晴明の袖が、貞光をふわりと包んだ。
「私が未熟でした。貴方が謝る事ではないのです」
 また貞光が泣くのを恐れた晴明は、貞光を膝に乗せて、もう一度先程幼子の名を書いた紙を文机に広げた。
「魂を見失わないよう、己の名をよく覚えなさい」
「はい」
 ほっとしたように、貞光は素直に返事をした。
「これは貴方に上げましょう。この机も、貴方が使いなさい」
 最初から、貞光の為に用意しておいた物だった。
「晴明様、こちらも下さりませ」
 貞光は、晴明の名の書かれた方の紙を指し示した。
「良いですよ」
 貞光は笑顔で二枚の紙を並べ、
「さだ、みつ、せい、めい」
と何度も文字をなぞった。
 翌朝目を覚ました貞光は、もう泣かなかった。
 昨日までは目を開けたと同時に、父母を求めて泣き出したのだが、今朝は黙ってむくりと体を起こした。
 姿が見えていなくても、晴明が屋敷の中にいるのを感じたので、貞光は泣かなかったのだ。
 晴明にはその姿が見えている。
 が、とりあえず、声を掛けず様子を見ていた。
 たどたどしくも服を着て、掛け物を畳み、鼻をすすって、
「……貞は泣きませぬ」
と、小さく呟いた。
 そして、昨日の二枚の紙を並べ、また呟いた。
「さだみつ、せいめい」
 晴明がその房に入ってきた時も、貞光は四つの文字を順に指でなぞっていた。
「今朝はよい子なのですね」
「おはようございます、晴明様」
 貞光は晴明の方に向き直り、両手をついて頭を下げた。
「貞はもう泣きませぬ」
「そうですね」
 晴明はほほえんだ。
「人が泣くのもたまには仕方ない事ですが、毎日泣いていてはなりませぬ」
 晴明は櫛を取り、貞光の髪を梳いた。
「貞はもう泣きませぬ」
 もう一度貞光は言った。
 櫛を置いて、晴明は立ち上がった。
「そうですね」
 晴明ももう一度言った。
「晴明様、どちらにいらっしゃるのですか」
 貞光の声に滲んだ不安の色に気付き、晴明は振り返った。
「訪ねてきた者があるのです。貴方は外で遊んでいても構いませんよ」
 俯いている貞光の頭を撫でて、晴明はまた貞光を袖に包んだ。
「今はまだ、私を見捨てないで」
 貞光は聞き違ったかと、驚いて晴明の顔を見上げた。
「私と共に居てくれるのでしょう?」
 晴明の微笑は輝くように美しかったが、貞光には、また晴明が泣いているような気がした。
「貞は、晴明様と一緒に居ります」
 晴明はもう一度貞光の頭を撫でて、離れた。
 西の対に晴明が歩いていくのを見て、貞光も立ち上がった。
「待たせましたね、季武」
「いや、何と言うほどのこともない」
 季武はゆらゆらと言った。
「あれが例の女孺か。水の気の強き事じゃな」
 表情は伺えないが、季武は楽しそうだった。
「里の力でしょう」
 時折はこういった力を持つ者が生まれていたが、貞光の力は強過ぎたのだった。 「貞光」
 透渡殿から伺う貞光に、晴明は声を掛けた。
 名を呼ばれると、貞光は小走りできて、晴明の後ろに隠れた。
「ほう、儂を見ても怯えぬか」
 まず、その姿を目にしただけで、悲鳴も上げずに倒れる者も多いのが、貞光は晴明の袖を掴んで隠れているが、震えることもなく季武の様子をうかがっている。
「儂は季武という爺じゃ」
 名乗ってから、晴明の顔を見た。
「ようようそなたに懐いたか」
「昨日までは、泣いてばかりだったのですがね」
 晴明が言うと、
「貞はもう泣きませぬ」
 晴明の袖の陰から貞光は言った。
「そうでした。もう泣かないのですよね。今朝も泣かずに起きました」
「晴明様もお泣きになってはいけません」
「ええ、泣きませんよ」
「そなたも泣いたのか?」
 季武は驚いたように言った。
「まさか」
 晴明は笑った。
「私の涙など、とうに枯れ果てております」
 低い声で、晴明が自嘲気味に言うのを聞こえなかったのか、その袖の陰から、貞光がそっと覗いた。
「爺様」
「おお、何か」
「爺様のお名は、どう書くのでございますか」
「儂の名か。季武の季は四季の事じゃ」
「四季」
「春、夏、秋、冬の事じゃな。それから、年月の事もさす。武は武力、強さの事じゃ」
「ではそれも後で書いて上げましょう」
 晴明が微笑みかけると、貞光も微笑んだ。
「爺様、お待ち下さいませ」
 貞光は立ち上がって、奥に駆けだした。
「ようやっと、馴染んだか」
 透渡殿を駆けていく貞光を見ながら、季武は呟くように言った。
「あの魂では、あのまま里に置いては妖鬼を呼び寄せるだけになろうな」
「ええ。ですから、己の魂を御する術を覚えてもらわねば成りません。同じ年頃の子と遊ばせてやれぬのは哀れと思いますが」
「仕方あるまいのう」
 パタパタと軽い足音が戻ってきた。
「爺様にも見せて差し上げます」
 貞光が持ってきたのは、昨日の二枚の紙だった。
「ほう、そなたの名じゃな」
 貞光は、もう晴明の袖に隠れず、季武の前に座って、二人の名の書かれた紙を並べた。
「良い名じゃな」
「晴明様のお名にはお日様が二つもあって、お月様もお持ちだから、こんなに光っておいでなのですよ」
「おお、そうじゃ」
 晴明の眉間にうっすら皺が寄るのを、季武は気づかない振りをして、貞光の言葉に頷いた。
「貞にも光があります」
 光という文字を指して、昨日晴明に聞いたばかりの事を、得意そうに話す。
「いかさま、此の屋敷の明るいは、そなたら二人の在る為か」
 季武はからからと笑った。
「貞光、そなた、儂が恐ろしゅうはないか?」
 季武の質問に、貞光はきょとんとして、首を傾げた。
「ならば可し、また参る故、習い覚えた事をこの爺に話してくれるかのう」
「はい」

 もう貞光は泣かなかった。
――了――

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