終わりの始まり

 黄泉津比良坂姫は斎戒沐浴を行い、榊を一枝取って、額に結んだ白布に挿んだ。
 陣を描き、反閇を踏んで、気配を察しひれ伏した。
「何用か」
 その声は静かに言った。
「畏れながら、月の神に御申す」
「私は月の大神ではないが、我が力の及ぶ事であるなら、聞こう。申すが良い」
 ひれ伏していても、月光の眩しさに姫は目を堅く閉じていた。
「我が傀儡を守護し賜れ」
「……傀儡……?」
 月光は不思議そうに聞き返した。
 実体はそこにない。
 それが分かっていても、その力の強大さを感じる事の出来る黄泉津比良坂姫は、袖の内で己の指が震えている事に気付いている。
 かつて、他の者達が、黄泉津比良坂姫の御簾の向こうで震えていたのと同じように。
「今や生きる者とてない荒都と言えど、彼の者の手に渡すわけには参りませぬ」
「……続けよ」
 声が震えぬよう、姫は大きく息を吸い込み、下腹に力を入れた。
「都の結界を打ち砕いた者は、湖に集い澱む魂の力を使って、神にならんとしております。其を喰らい集める妖鬼を打ち倒さねばなりませぬ。されど御身の加護が無くば、傀儡が妖鬼の処まで辿り着く事すら叶いますまい」
 黄泉津比良坂姫は、月光に促されるまま、道真の事を語った。
「そなたはミチザネを打ち倒したいのか?」
「道真を救う為でございます」
 姫は月光の眩しさに耐えて、顔を上げた。
 光は姫の心を灼く。
「救う為に殺すのか?」
「死を持って、彼の者を縛る憎悪を断ちまする」
 その痛みに耐えながら、姫は続けた。
「傀儡の、その死を齋す力によって、憎しみの凝った肉体より、道真の魂を解放いたしたいのでございます」
「死とは……解放となるか?」
「なりまする」
 月光は少し考え込んだのち、
「可し、ならばそなたに免じ、明晩は、闇の内より湧き出づる怨念を封じよう。地の者同士の諍いに、手を出す事は我が神より禁じられている。これ以上の事はしてやれぬ」
と、応えた。
 姫は乱れた呼吸の下で、もう一度平伏して礼を述べた。
「忝い事でございます」
「雲の無い夜になれば良いがな」
 そして、ふいと月光の気配は消えた。
 もう一度そちらを拝して、黄泉津比良坂姫は崩れるように床に倒れ込んだ。
 降臨した月光の化身の力は、あまりにも強大で、それに耐えるのに黄泉津比良坂姫ですら、渾身の力を必要としたのだった。
 が、だからこそ、必ず頼光の、遂には道真の救いとなる筈。
「……頼光よ、必ずや、彼の者を解放せよ……!」

「ヒトの都……か」
 晴明は呟いた。
 月の誰にも聞こえなかったか細い声――黄泉津比良坂姫の全霊を込めた祈り――を聞く事が出来たのは、晴明ただ一人であった。
 その声を辿って意識を飛ばし、初めて見た青い星。
 緑なす山々、煌めく水。
 その間にあって、荒廃した都の、痛ましい様。
 そして晴明に助けを求めた婦人。
「あれがヒト」
 晴明は己の両掌を見た。
 自分に似た姿をしていた。
 月に在って、このような姿をしているのは母たる神と、晴明だけ。
「ヒトというのは、皆あのような姿なのだろうか」
 椅子に座り、両目を伏せ、晴明は小さく溜息を付いた。
 晴明は、此の月の宮殿の外に出た事はない。意識だけとはいえ、母である神の結界の外を見たのは初めてであった。
「ヨモツヒラサカ」
 平伏して奏上した臈長けた婦人の名を、口の中で呟いた。
「死が魂を解放する……か……」
 晴明は長い事、考え込んだ。
 月の宮に、死を知る者はない。
 その湖に沈む魂達も、その傀儡の力に縋って救われようとして寄り着くのだろうか。
「あの者の傀儡とはどのような者であろう」
 晴明は小さく呟いてから、薄く両目を開けて、翡翠の柱の向こうからやってくる朱月童子を見た。
「神になろうという者さえも、屠る事が出来る者……?」
 その傀儡の名を訊かなかった事を、晴明が後悔したのは千年以上後のことだった。

――了――

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