「礼を言うぞ、ニンゲン」
九本の尾をひらめかせながら、月光を纏った者が言った。
さすがに晴明の母だけはある。
頼光を人と呼んだ。
思わず、頼光の口の端に笑みが浮かんだ。
「ほう……? 我に臆さぬか」
その笑みに頼光自身と同じくらいには、月狐も驚いたようだ。
言の葉の棘どころではない。
晴明に刃を向けた。
もう、思いが届く事もあるまい。
己の身が塵となろうが無となろうが、どうでもよかった。
「私を人と呼んだ、その礼をしよう」
頼光は呟いた。
晴明が望み憧れた、頼光の持つ力。
その白い体に死の欠片を突き立てる度、月狐は吼え、呪いの言葉を発した。
「まだ生きて居るか。……ヒトとはもっと脆いものかと思っておったぞ」
この期に及んでなお、月狐は頼光を人と呼んだ。
頼光は笑った。
「嬉しい事を言う。ヒトか、私が」
血の気のない白い顔に、歓喜を浮かべて頼光は月狐に向かって行った。
「私をヒトと呼ぶ、御前には我が全力を持って、きっと滅びを捧ごう」
その姿に、やっと月狐は恐怖した。
死も滅びもないはずの月狐が、死の薫りを感じて戦慄した。
――痛い痛い痛い
晴明に尾の一つを奪われて血を流し続けていた時より遙かに強い、魂が痺れるような痛みが頼光の剣と術で月狐を切り裂いていく。
月狐は混乱し始めていた。
油断していたとはいえ、片目を失っていながら自分の尾を奪い去る事の出来た晴明。
もしや晴明は、自分と同等の、本当はそれ以上の力を持っていたのではないか。
そして今、喜びに打ち震えながら自分の体を刻んでいるのは、その晴明が頼み、間違いなく滅するつもりで争い、それを退けた男。
――まさか、そんな事が
「虫けらのごときニンゲンに……斯様な目に……」
月狐の苦呻を聞いて、自身も傷だらけになっている頼光が、慈愛に満ちた笑顔を浮かべた。
愛しい者を抱くように、頼光は微笑んで白い巨妖に奉魂の剣を突き立てた。
絶叫して白い巨体が落ちていく。
「己が身朽ち果てようとも……浄化の星降は果そうぞ……!」
死の恐怖に震え、無となる事から逃れるため、不死なる自分を殺すニンゲンに報いるため、月狐は最後の力でその体を殺生石に変えた。
ようやく上ってきた晴明が、その様を見て絶望に震えた。
「こうなっては最早……誰にも止められぬ……」
自分の目を捧げ、手足をも捧げようとし、不死たる命と引き換えにしても守ろうとした都が滅んでしまう。
へたり込んだ晴明の横に立っていた頼光が、跳んだ。
微笑みを浮かべて。
「最期まで私をヒトと呼んだ、御前には必ず死を奉らん」
痛みを感じる事のなくなった月狐に、再び頼光は剣を振るった。
生きた者の居なくなった世界に、ただ独り残された黄泉津比羅坂姫は、凝って狂った魂を見て、一度だけ悲しさを見せて呟いた。
『残されて生き続ける事は……果てのない苦しみよな……』
やっと分かった。
黄泉津比羅坂姫は、また独りに戻るのが恐ろしいばかりに頼光に近づこうとしなかったのだと。
昨日までの頼光と同じく。
「御前はもう充分苦しんだ」
殺生石を削り、頼光は優しく囁いた。
「もういいんだ」
殺生石の中心が砕け散った瞬間、その光の中にもう一つの魂が現れたのを頼光は見た。
『こんな所にいたのか 黄泉を探しても居らぬ筈じゃ』
その魂が、月狐だった者に手招きをした。
『さあ』
月狐だった者は応えて手を伸ばした。
『我が背……』
その二つは一つになって、黄泉へ消えた。
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