濁世

 この天女は、何故この濁世に降りてきたのだろう。
 頼光は、白珠が天に昇っていくのを見てから、腕の中にいる晴明をもう一度見た。
 まだ頬は白いが、呼吸は徐々に落ち着いてきている。
 かの巨妖は地を持ち上げる力があるという。
 先ほどまで晴明と争っていた場所も、落ちていく晴明を抱えて降りたこの場所も、巨岩が空に浮かんで出来ている処である。
 巨妖が作ったとは思えない。
 晴明が作り上げたものであろう。
 それほどの力を持った天女が、道満の言葉から察するに、人を守るために晴明は自ら目を抉ったのだ。
 月の眷属が、己が主と区別の付かぬほど同じ色の光を放つ者。
 その上、晴明は地上の理も使いこなしている。
 頼光の巫術は全く通用せず、翻って晴明の術は頼光を打ちのめした。白珠で弱っているのでなければ、勝てたかどうか。
 今や空隙となった左の眼窩には、右と同じ、緑色の瞳が入っていたのだろうか。
 頼光の知らない晴明の左目は、どのような眼差しをしていたのだろう。
『最初から貴様が居れば、晴明が左目を抉る事もなかったであろうにな!』
 道満の憎悪は、まだ頼光の内に残っていた。
「この目は私の所為だと?」
 呟いた己の言葉が、胸裏に季武の言葉を呼び起こす。
『責は他にもあろうよ』
「……私の罪、か……」
 狩衣の袖に描かれた血の花が、俯いた頼光の目に入る。
 封珠院で偽の晴明の腕から逃れられなかったのは、紛れもなく頼光の罪。
 よろよろとふらついた、燃え盛る炎の狩衣を纏った白い手から、どうして逃れることが出来なかったのだろう。
 あれはこの手ではなかったのに。
 頼光はその手を自分の掌に載せた。
 手袋越しにも冷たい手だった。
 無限の筈の命の火が燃え尽き掛けた体で、頼光の渾身の剣を受け続けた。
 何故。
 天女の身で何故そこまでして、この濁世のために。
 頼光の肩に載った、死を齋し続けた一族の罪の上に、更に晴明を此処まで苦しめた罪が重なるのか。
 頼光もうっすら感じていた。
 恐らく、月の主である白い巨妖と、この天女は同等の力を持っている。本来ならば、あの荒ぶる神と座を並ぶべき者であろう事を。
「御身が己の神を弑すべきではない。貴女の左目の恩に報いて、私は必ずかの神に死を奉ろう」
 未だ腕の中で気を失ったままの晴明に、頼光は囁いた。
「それは貴女が負うべき罪ではない。私の肩に載せ置くがいい」
 晴明に聞かせるためではなく、その言霊によって、晴明に罪を負わせない為だった。
 睫を数えられるほどの間近で、晴明を見ることはもう出来ないだろう。
 だが、急がねばならなかった。
 この天女は、人の分の罪まで負おうとする。
 目が覚めれば、頼光に罪を負わせないため、自分の手でかの神にとどめを刺そうとするだろう。
 一つ大きな溜息をついて、晴明を抱き上げて頼光は立ち上がった。
 晴明の右目は、次に開いた時、どんな風に頼光を見るのだろう。
 その前に、月の白い神を屠らねばならなかった。

――了――

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