目も開けず、口も利かぬこの男は、既に感情などないのだろうと思っていた。
醜怪な妖の群を前にしても、眉根一つ動かさず、涼しげに立つ。
肉は黄泉がえりても、心は置いて来てしまったのだろうと思っていた。
「ならば何と美しく舞う人形であろうことよ」
晴明は開いた扇の内で小さく呟いた。
どこぞの美姫さえ羨むほどの、艶やかな黒髪を旗印のようになびかせ、胡蝶が舞うように跳ぶ。
武人にしてはむしろ細いようにすら思われる長身で、優しげな風情に似つかわしくない甲冑を纏い、持ち上げる事すら難しいのではと見えるほどの大剣を、羽扇のように優雅に薙ぐと、その美しき姿の行く手を阻むのを恥じたかのように、総ての物が壊れ、道を開ける。
その剣先は月虹の様に輝く弧を描き、紫の死の薫りを焔のように残す。
「傀儡……よの」
晴明は小さく嘆息した。
偽の晴明の言葉をも疑う事無く従い、封じられていた将門の魂魄を解放してしまったのは、偽者との矛盾に思いが寄らぬからであろうと思われた。
……否、そう思いたかったのかもしれない。
その男は、無口なのではない。
その意志を戒めとして、沈黙していたのだった。
自身を現世に呼び返した者は、月の光を纏っていた。
並大抵の力で出来得る事ではない。
最初は稀なほどの才を持った斎皇女かとも思ったが、ならば男のなりなどしていよう筈はない。
自分と似通った何か、自分と最も遠く離れた何かが、晴明の中にはある。
それだけでなく、この者の中には何か調和しないものがある。奉魂の舞の中にかすかに覗いた、哀しみの片鱗に結びついているものが。
かつて人であった頃の、自身の内にあったのと同じ色の闇。
頼光の背後に晴明が在る時、それは稀に覗く事がある。
だが、その装いのように晴明の心は頑なで、振り向けばたちどころに、月光のように冷たい光の壁がそれを覆い隠す。
それが分からぬ内は、心を表に出してはならぬ。手を伸べれば、それは見えぬところに飛び去るだろう。
おかしいと思いつも、石牢を破らせた晴明には、同じ月光の気配があった為、本物の言葉と思い、従ったのだ。
この現世に、斯様な月光を帯びた魂を持った者など、二人といよう筈がない。
終ぞ聞いた事のない珍しく感情を帯びた声、気安げな物言いに、僅かなれと言え心を開いたかと、むしろ嬉しくさえあった。
あれは晴明の内にあるもう一つの魂なのでは、とさえも思った。余りにも大きな哀しみ、苦しみは、一つの魂を二つに分かつ時も在る事を、頼光は知っていた。
――私が眠っておる間に、現世では一体何があったのか
分からぬ頼光は、総て分かるまでは心を見せぬと決めたのだ。妖の術が当たっても、呻き声一つ上げず、眉を顰めすらせず。
ただの器でしかないと思えば、晴明も心を漏らすやも知れぬと考えて。
戦より戻り、体躯の傷を癒す為、四万の霊泉の湯に身を沈める。
それは湯浴みというよりは禊だ。
水の気を持つ貞光が見出したというその湯は、晴明の練った気をも含み、穢毒を清め、かすり傷なら見る間に塞がっていく。それでも大きな打撃による痣や傷は、直ぐには消えない。
人の気配を感じ、頼光は湯から出て、肌着を着ける。
「……頼光?」
晴明だ。
烏帽子こそ取っていたものの、ここまで来てまだ狩衣を着けたままだ。
慌てた様子を見せては心のあるを知られてしまう。頼光は特に急ぐでも背を向けるでもなく、何も見えていないかのように身支度をする。
着物が覆う前のその胸に、白い指が触れた。
「頼光、……湯に入られなかったのですか?」
そこには痣が残っていた。
綱などは、普段から上体は脱いだままである。晴明が男の肌に悲鳴を上げたりはせぬだろうとは思っていたが、まさか直接肌に触れられるとは思わず、頼光は身を固くした。
「いや、湯は使われたのですね。それでも残っているとは……」
晴明の指が離れたので、頼光は前を合わせ、後ろを向き、わざとゆっくり歩き出した。
――あれだけの傷を負っても表情を変えぬのは、やはり人形も同じ……という事か。魂を入れ損ねたか……。
晴明は思案していた。
――済まぬ事とは思えど、傀儡なれば、傀儡としての役を演じていただいても良いでしょう。
頼光を飲み込んだ方向に、晴明は頭を垂れた。
「いずれ、この罪は私が背負って参ります程に、御赦し下され」
そして、顔を上げると、月を睨んだ。
偽りの晴明が言ったように、頼光は晴明の施した罠を易々と突破していく。
その剣先が触れれば、金襴蒔絵の施された柱も、砕け散る。
封を破った頼光は、諾々と、手にした白珠を偽りの晴明に渡す。
――やはり、……な。
「偽者には偽物が相応しい」
晴明が姿を現すと、偽物は憤怒を陽炎のように揺らし、晴明を睨んだ。
頼光は偽者のほうを向いたまま。
何か。
偽者の術が漂った。しかし晴明はそれを取るに足らぬと判断した。
心を持たぬ者が、何かに魅入られよう筈はない。
だが、妖を薙ぎ払う冷徹さが信じられぬほど、頼光はぼんやりと立っていた。
焔を纏った偽者に抱かれて、その腕を払う事もなく。
――まさか
頼光も炎に包まれて、諸手を開いて偽物の晴明を掻き抱き、……消滅した。
晴明は封珠院の内に膝折れた。
――頼光
身を焼く炎の中で、その腕に抱いた女は、頼光を見上げて嫣然と微笑んだ。
――そなた、晴明を……
のたうつ隙もないほどの苦痛の中で、偽の晴明は満足げに笑っていた。
――とまれ、頼光は手に入れた。もう晴明が縋るものはないのじゃ。果てしなく続く孤独を抱いて、せいぜい存えるのじゃな……
焔の中の哄笑が、晴明の耳に届いたかどうか。
――そなた、晴明に誑かされてか
その月光を帯びた魂魄は、頼光に向かって蔑む様に言った。
――ほほほ
堕ちて行きながら、愉快で堪らぬ風だ。
――そうか、愛し女の姿形に騙されてか。源頼光ともあろうものが。さぞ本望であろう、本当の月の光は抱く事は出来ぬものじゃ。それを映した我を抱いたのじゃ、満足して死ぬるが良い……
徐々にその気配は薄くなり、遂に消滅した。
――月の……光……
頼光の意識も薄まっていく。
――本当の……月の光……?
既に落下の感覚もない。
晴明が焔の中で微笑んだ時、自分の腕がその晴明を抱いた。
――そうか、私は……
焔の熱さは思い出せない。晴明の形をした物を抱き締めた感触は憶えていた。
偽晴明だったものは完全に消滅していた。
だが、愛しい女の形を抱いた、その感触が蘇るにつれ、消え入ろうとしていた頼光の輪郭が、徐々に戻っていく。
――晴明
四天王を贄として奉げられたあの木の下で、舞に滲んだ哀しみ。
――貴女の道を塞ぐ茨を払う剣となろうと思うておったに……。貴女はどうやって茨の道を行くのか……
無明無音の中で、頼光は晴明を思った。
――済まぬ……
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