貞光がおろおろと出てきたのを見、頼光はその身が冷えるのを感じた。
「晴明様が……!」
言葉もなく、頼光は晴明の居室に駆け込んだ。
几帳を撥ね、見ると、貞光が着せ替えたのであろう、単に身を包んだ晴明は、安らかな寝息を立てている。
頼光は両手で顔を覆い、へたり込むように腰を下ろした。
ようやく追いついた貞光が、頼光の肩越しに言う。
「晴明様が……いくらお名を呼んでもお目を開けられませぬ」
貞光は今にも泣き出しそうだった。
「……傷は?」
「それは大した事はございませぬ」
頼光はほっと小さく溜息をついた。
「なれば、白珠の毒に弱って眠っているだけであろう」
「白珠の……毒……?」
貞光は気付いていなかったのだ。
「御身の内に抱えていた白珠は抜き取った。ようやっと深き眠りを得られたのであろう」
頼光の言葉を聴いて、貞光もへたり込んだ。
「妾は……晴明様がこのままお目覚めにならなかったらと……」
貞光は頼光に取り付いて泣いた。
「貞光……!離れよ!……私は穢れたる身、触れるでない」
僅かうろたえた頼光に、その籠手を抱いたまま、貞光は顔を上げた。
「……湯浴みをなさいますのか」
「いや、そうではない」
貞光を振り払うわけにも行かず、頼光は顔を背けた。
「私は亡者に等しい、死に穢れた身だ」
「晴明様はいつも……最も尊い、清い力をお持ちの方であると仰っておられましたが」
「……晴明が……?」
「違うのですか……?」
――晴明が、如何でそなたを穢れていると思う筈があろう
季武の言葉と、貞光の言葉が、光を伴って頼光の魂に流れ込んでいく。
「晴明はどうした」
白き巨妖が、愉快そうに頼光に言った。
「まさか己が傀儡に背かれるとは思うてもみなかったであろう」
欠けた身を取り戻した月狐は大きなその身体を揺らめかした。その尾は九本。
頼光は空を蹴り、月狐に切りかかる。
月狐から憎悪が噴出す。
「我が愛しき落胤……我と玉座を並ぶ筈であった……来る日も来る日も眼下の青い星に見入り、遂には我が身を奪いてニンゲン如きにその力を齎そうとは」
九本の尾がその身を囲む。
「我よりいとし子を奪いたるニンゲン共よ」
その怒りの光が頼光に押し寄せてくる。
「我を裏切りたる者共よ!」
――痛いとは思わぬ
頼光はその中を前進する。
――晴明に刃を向けた事を思わば、こんなものは痛みの内にすら入らぬ
「ほう、まだ生きて居るか。ニンゲンとはもっと脆いものかと思うて居ったぞ……あの時は直ぐに死んでしまったものを」
頭上に炸裂する巫術に、月狐は術者を睨む。
確実に頼光の剣は月狐の命を削って行く。そして、同時に月狐の憎悪は膨れ上がって行く。
頼光は背後に愛しい者の気配を感じた。
――此処に昇ってこられるほど回復したか
目覚め、急ぎ昇って来た晴明は、完全なる力を取り戻した九尾狐を、頼光が人の身で此処まで追い詰めて居ようとは思わず、呆然と争いに見入った。
そして、晴明が肩で息をしながら桜の根方に立っているのを、月狐は見た。その目が自分でなく、その前にあるニンゲンの姿を追っているのを。
「憎やのう、斯様な虫けら如き者が我より総てを奪おうてか!」
奉魂の剣が白き巨妖を切り裂く。
その美しい尾を引きながら、白い身体が落ちていく。
「口惜しや。……虫けらの如きニンゲンに……斯様な目に合わさるるとは……」
晴明は、その巨妖に歩み寄る。
「我が落胤よ……こうまで我が意に抗うか。ニンゲンめ、我より晴明を奪いし者共……憎や……憎やのう……」
月狐はかっと目を見開き、
「己が身朽ち果てようとも……浄化の星降は果そうぞ……!」
呪詛の言葉を吐き出した。
見る見るうちに、その憎悪が結晶し、巨大な岩に変じていく。
「……殺生石と成り果てたか……」
晴明は絶望に崩折れた。
「こうなっては最早……誰にも止められぬ」
頼光は跳んだ。
――そうとも季武、晴明の涙には耐えられぬ
晴明は再び、呆然と頼光の姿を見る。
美しく舞うように剣を薙ぐ、その姿を。
「頼光……貴方のその力……見届けさせて頂きましょう」
まさに神をも屠る力。
不死たる月の王を屠り、頼光の剣は、殺生石すら打ち砕いた。
地表には、月光を弾く白い鎧を纏った男が立っていた。
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