人形の夢

 さびしい
 さびしい
 工房ごと打ち捨てられた人形の声に、応える者はない筈だった。
 もとより、聞こえる筈もない声。
 その(しょう)無き者の声に応えた者があった。
 開け放たれた扉、ガラスの失われた窓から、音もなく忍び込んだ月光が、人形に問う。
『何を望んだ?』
 人形は動かない固い唇で答えた。
「私は人形です、人を愛したいのです」
 枯れかけた花が風に揺れる音だけが、月光の中にあった。
「ここには誰もいません。あの方は、私を捨てて狩りに行ってしまったのです」
 その悲痛な声を聴いたのは月光だけだった。
『哀れな人形よ、祈れ。強く望めばそれは叶おう。お前の夢を見せよ』
「私の夢」
 開いたままのガラスの瞳に、月光の欠片が宿る。
 工房の暖炉に火が絶えず、狩人になる前の主が灰色の髪を梳いてくれていた頃を、人形は思った。
『それがお前の望みか』
 空には大きな、青醒めた丸い月が人形を見ていた。
 白い靄が形を取り、固着して家の形を作る。
 鬱々とした重く湿った空気と、埃の匂いのする暗い家。

「あああああ」
 薪のはぜる暖炉の前で、(しわが)れた恐怖の声が聞こえた。
「これは何だ!? 私はなぜ此処に!?」
 右足を失った老人が、軋む車椅子の上にいた。
 忘れようがないほど見慣れた室内。
 作業台、飾り棚。
 だが、乱雑に積み上がった本は、凪ぎ払っても開くことはない。
「これは夢か!?」
『そうともこれは夢』
 聞こえない声が、老人の耳の奥で答えた。
『お前が打ち捨てた人形の』
「人形……!」
 老人は身を震わせた。
 己自身の内にあったおぞましい恋情、そしてその恋情の元となった美しい弟子の、冒涜的な実験を思い出した。
 青白い、異様なまでに大きく輝く月。
『獣狩りの夜だ』
 声のない月の言葉を聞き、老人は枯れ木のような手で顔を覆った。
「ああ、私は消し去らねばならない」
 ヤーナムの罪と、その元凶も。
『その足では狩りには行けぬであろうな』
 自分を愛していた時のゲールマンではなく、脚を失い年老いたゲールマンを人形が望んだ理由。
 人形を打ち捨てて狩りに行く事はできないように、と。
 そもそも、この夢から出て行くことすら出来はしないのだが、人形はそれを望んだのだ。
 状況を把握して、老人の恐怖は、罪から逃れる事ができないという絶望に変わっていった。
「では誰が私の罪を購ってくれるのか」
 月は答えた。
『使者がこの夢に、お前の代わりの狩人を連れてくるだろう』
 老人は残った左足に、小さな手を感じた。
 真珠色の光沢を纏った、グロテスクな侏儒(しゅじゅ)が、靴にぬめった手を掛けて老人を見上げていた。
 ヤーナムの罪の始まりである、鄙びた海辺の村に積み上げられた魚のような――否――魚ではない、あれと同じ質感。
『その傀儡を使って、獣狩りの夜を終わらせるが良い』
 その月光は、聞こえない己の言葉に、何かちくりと引っかかる物があったようだ。
 だが、絶望とおぞましさに震える老人が、それに気付くことはない。
 人形は庭にあった。
 夢の主人たる人形は、生きている者のようにゆったりと庭を歩き、ヤーナムにだけ咲く七弁の白い花を眺めていた。
 そして、(おもむ)ろに空を見上げる。
「月の女神」
 固く冷たい唇から、誰かと同じ声が出た。
 人形はそれを聴いた事は無いはずだったが、その声は月光の名を知っていた。
「月の女神、フローラ」
 人形はあり得ないほど大きい、円い月を見て、うっとりとそう言った。
 夢見るように。

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