黄泉の元に宿す一片の月

 夢だ。
 いつでも夢を見ていた。
 晴明の夢だ。
 だが、それはやはり夢だ。
 何度もただ繰り返すだけ。
『よくぞ黄泉がえられた、古の巫術師よ』
 そう、この時は僅かに驚いたような目をしていた。
『……あるいは、心地よいやもしれません』
 ほんの僅か、拗ねたような声音。
『この時……待ちわびましたよ』
 少し震えた声。青ざめた顔。
『ここは退いてはいただけませぬか』
……九尾は私がきっと討ち果たす
 夢の中でさえも、いつも喉の奥に舌が張り付いて、そう答える事はできなかった。
『そうですか』
 懇願するような瞳が見る見るうちに冷たく光る。
『その愚かしさを貴方の魂の墓標と致しましょう』
 そうではない。
 やめてくれ。
 その先もいつも同じだ。
 私は晴明に刃を向け、力ずくで白珠を抉り出す。
 何度も何度も。
 循環し続ける。
 夢という物は、私の事を思っている者が出てくると言うが、これは記憶をたどっているだけだ。
 だから、夢の中でさえ、見た事のない晴明の笑顔を見る事はできない。
 私を虚空に返す時も、ただ独り残される悲しみを隠しているだけだった。
 私はここから出られない。
 黄泉へ流れ下る魂魄達の流れを近くに感じては居ても、その流れに連なることはなく、消滅することもない。
 輪廻の理を外れ、虚空に捕らわれ、現世の者に呼び掛けることなどできない。
 ただ記憶の中を循環するだけ。
 それがある時、忘却の川へ向かう魂魄が一つ、私の名を呼んだ。
『ああ、こんな奥の方に居るのか』
 綱だった。
 姿があるわけではない。が、その強い輝きは、確かに綱の物だ。その言葉と共に綱の記憶が少し、此方へ流れ込んできた。
『あんたには世話をかけたな。あの川を越えたら、あんたの事も忘れちまう。その前に礼を言いたかった』
 その言葉と綱の現世の記憶が私の内に流れ込んだ。
『次に遭えたら、今度は儂があんたと晴明を助けてやるさ』
 安堵したように綱の魂は元の流れに乗り、下っていった。
 それからしばらくして公時が、そして季武も同じように流れていった。
 綱に「堅苦しくていかん」と言われた公時は、やはり律儀に礼を述べていき、季武はからからと笑って「いずれまみえる時も有ろうな」と流れていった。
 二人は、貞光と共に微笑む晴明の記憶を置いていった。
 やはりそれは記憶で、その晴明に触れる事も、話し掛ける事すらできなかったが、私の魂の奥にある痛みを薄めてくれた。
 だが、最後にやってきた貞光は違っていた。
『頼光様! 頼光様! どうぞお助け下さいませ!』
 悲鳴を上げ、抗いながらも流れてきた。
……貞光……
 時折はいる。自身の死を認めることができぬ者が。
……だが、貞光、そなたは天寿であろう。
 その前にきた季武の記憶には、成長し、正しく老いていく貞光の姿もあったのだ。
『ああ! 頼光様! ここにおわしましたのか!』  貞光の魂魄は、無い手を此方に伸ばしてきた。
『ええ、妾は天寿でございます、ですが晴明様が! 晴明様をお助け下さいませ!』
……晴明? 死を得るはずもない晴明がどうするというのか。
『晴明様の魂が、妾の後を追っておいでになります! このままでは――』
 滅ばぬ肉体を現世に置いたまま。
『どうぞ晴明様を』
 今も流れに逆らって留まろうとする貞光の魂には、その力に縋ろうとする亡者達がとりつき始めていた。
 そう、彼方から、それでも紛う事のない月の光が駆けてくるのが分かった。
『貞光! 貞光! 私も一緒に!』
 覗く事のできた貞光の記憶では、予期した通り、人々は救われたことなど忘れ、老いることもない晴明を怖れ、忌み、ただ二人で山奥に隠れ住んでいた。
 孤独は、私にも分かる。
 が、時の流れも感じ、人の心の動きも感じる事のできる晴明には、どれほどの苦しみかは察して余りある。
 だが、貞光を追って救われる訳もなく、それで死ねるわけでもない。
……晴明!
 月光の魂魄は立ち止まった。
……晴明! 戻れ! これ以上進んではならぬ!
 だが、私の声が届いたのではなかった。
 晴明はふわりと光って、歌うように言った。
『貞光、一緒に参りましょう』
……晴明、貴女は貞光とは一緒に逝けぬのだ。貴女が戻らねば、貞光も逝けぬ。将門の事を忘れたのか
『……将門……?』
 今度は聞こえたのか、いぶかしげに晴明は呟いた。
『晴明様、どうぞお戻り遊ばされませ』
 懇願する貞光の声は既に濁り始めていた。
『……独りに……』
 少し正気を取り戻したのか、晴明は他の魂魄と違って輪郭を取り始めた。亡者では無いという証。
……私が貴女の事を覚えている、戻れ晴明
『お戻り下さりませ……何卒』
 縋り付く亡者達の中に、貞光の魂は埋まり駆けていた。
……貞光、そなたはこれ以上留まってはならぬ!
『貞光、私を置いていかないで』
『……晴……明……様!』
 穢れが取り付き、貞光の魂の輪郭は滲んでいく。
 貞光が留まっているのではなかった。
 晴明が引き止めているのだ。
『お助け下さ……いませ……頼光……様……!』
 貞光の悲痛な叫びに、晴明の動きが止まった。
『……頼……光』
 晴明が我が名を呟いた。
 その言霊によって、私は形を持った。
……晴明!
 長く暗闇の中にあった私を、晴明の光が剣のように刺し貫く。
 歓喜に満ちた痛み。
……晴明! 私がいる! 私は貴女を忘れる事はない、ここに私はいる! 貞光を解放してやれ!
『あああ』
 晴明はようやく貞光の惨状を見たのだろう。
 顔を覆い足を止めると、貞光の魂に群がっていた穢れが晴明の光によって祓われ、流れ始めた。
『晴明様、どうぞお健やかにあらされませ。頼光様、幾たびも、かたじけのうございました』
 その水の気に相応しく、貞光の魂魄は清水のようにさらさらと流れていった。
……晴明……
『見苦しい様を見せてしまいました』
 顔を覆っていた手を離すと、以前と同じ頑なな晴明がいた。
 永遠を独りで生きるには、そうするしかないのだろう。
 私の事など思い出しもせぬのだな。
……さあ、疾く戻れ、星辰を導く月であっても、貴女の光は此処の者には強すぎる。
 晴明は肩を落とし俯き、背を向けた。
『頼光、他の四天も此処を通りましたか』
……通った。
『そうですか。……私の事を恨んではおりませんでしたか』
……いいや。次にまみえる時は、私と貴女を救うそうだ。
『貴方と……私……を救う……』
 出会いの時のような、僅かに驚いた顔。
 そして、私を見て、晴明は更に驚いた顔をした。
 多分私は笑っていたのだろう。
……さあ、疾く戻れ。私はまた貴女の夢を見よう。
『私の?』
……貴女が私を(おと)なう事はないが、四天が貴女の記憶を置いていってくれた。お陰で貴女の苦しむ姿だけでなく、貴女が笑うのを見る事ができるようになった。
 晴明が私を見る。
 光が私を灼く。何という痛み。
 何という歓喜。
『頼光、貴方は此処に居るのですね』
……そうだ、此処に居る。
『では、私も貴方の夢を見ることに致しましょう』
 晴明は目を閉じ、背を向けた。
 気配が消え、同時に痛みも消えた。
 渺々(びょうびょう)とした静寂と闇が戻った。
 が、私の掌の中に、気配があった。
 晴明の残した言霊が、晴明の気配を宿していた。
『私の事を、星辰を導く月と仰いましたが、貴方こそは本当に、数多の魂魄を導く、黄泉(こうせん)の元に宿す月だったのですね。』
 私は救われるのだろうか。
 ならば、晴明、貴女の罪と思う物も、私の肩に載せて置くが良い。
 私の肩の方が広いのだから。

HOME O・TO・GI top

inserted by FC2 system