暗闇の中では、どれ程の時が経ったのかよく分からない。
否、道満は毎夜月を見上げていたのだから、分からぬはずはない。
それを数える気にならなかっただけだ。
月光と共に朱月童子達のざわめきが、洞穴に降り注いだ。
暗闇の中にあって、晴明の訪いを待って、道満はそれを聞いた。
晴明が「源の男」を得たと聞いた時は、木の根のようになった左手も、嵐にあったように震え、土を噛み、燐光を捲き散らした。
闇の中にあれば、その姿を見られることはない。
何度かの月輪を見上げないまま、晴明の名を呼び、悶えのたうち続けた後、漸く顔を上げ、また月を見上げた。
最初に滅んだのは、土蜘蛛だった。
その報せを聞いた時、一瞬だけ綱の事を思い出したが、もうその異形の姿さえ思い出す事は出来なかった。
晴明に化けた者が、荒ぶる白い神の身を取り返す事に失敗し、それでも「源の男」を消し去ったと聞いて、喜びに打ち震えた。
都は瓦解し、人は逃げまどった。
晴明が四天と頼んだ綱や季武も、かつて将門と共にあった公時も失って、養い子とたった二人で妖鬼を打ち払っていると聞き、哄笑した。
「その女童を失えば、晴明はたった独りよな」
水の気の源である、貞光の故郷に猩々を送り込み、道満は逃げまどう人を石に変えた。
「闇の内に参れ」
清流は涸れ、水晶は濁る。
「さあ、この闇を辿って、儂の元に参れ」
道満は闇の中で笑った。
「そなたの養い子など、どうでも良い。儂が欲したのはそなたじゃ、晴明!」
闇は一層深く、光り岩を覆っていく。
「その女童など、居らねば良かった! さすれば――」
闇の中で、道満は胸を押さえ、膝をつく。
貞光が居なかったところで、晴明は道満の心に気付いたであろうか?
もう道満は知っていた。
晴明が荒ぶる神と並ぶ筈だった事を。
人の地を憧憬し、古に、かつての結界を取り戻した巫術師を探し続けていた事を。
道満ではないのだ。
月を見上げても、朱月童子の私語が聞こえなくなっていた事にも、道満は気付いていなかった。
闇に穢された水の里。
そこに、猩々を通じて、晴明の嘆きの声が聞こえた。
「さあ、参れ」
その殺戮は、確かに有効だった。
「参れ、闇の内へ参れ」
土蜘蛛も白銀人も駆逐され、晴明は遂に其処へやってきた。
「妖しの女に惑わされ、闇に足を踏み入れた愚か者が一人か……」
それは道満自身への嘲りの言葉。
「……その姿――闇に魅入られたか」
だがその声は、頭上で聞こえた。
「道満……」
晴明の声が呼んだ。
違う。
呼んでなど居ない。
それは驚きの言葉だった。
しかし、道満の前に立ったのは、晴明ではなかった。
闇の中にさえ浮かんで見える、月光のように白い鎧、長い黒髪をたなびかせた青年。
人形のように美しいその姿を見て、道満は最初、それは晴明の拵えた式神かと思った。
魂を持った男だと気付いた時、道満の腸は煮えたぎった。
「傀儡を踊らせ高みの見物か、晴明……」
晴明の肌に触れるためだけに異形となり、幾年も闇の中で涙を流したというのに。
美しい姿のまま、晴明の近くに在るなどと。
「哀れな傀儡よ、闇の内にて待っておるぞ……」
闇の中に浮かぶ、その人形の美しさを憎悪し、猩々が襲いかかる。
白い剣が闇の中で弧を描き、また、猩々の角に弾き飛ばされても、その傀儡は舞い続ける。
「めげぬ若造だ! その魂、気に入ったぞ!」
晴明の為にだけ手に入れた力。
道満は青い燐光を放つ。
それに肌を灼かれても、傀儡は退かなかった。
呻き声一つ上げず、弾き飛ばされても膝をつく事もなく突進してくる。
光に灼かれ、傀儡の剣に刻まれ、突如道満は気付いた。
この美しい傀儡こそが、あの晴明が己が刃と頼んだ「源の男」なのだと。
道満は混乱していた。
「源の男」は異世に落とされた筈ではなかったのか。
そこは黄泉ですらないと、蒼月童子の私語で聞いていた。
輪廻の河へ向かう黄泉路からも外れ、魂を灰燼へと帰す処。
未来永劫に魂魄を消滅させる処であると。
晴明は、血肉どころか、魂魄すら塵となる筈だった死者すら呼び戻すと言うのか。
そして、この男はそれに応えて戻ったというのか。
何一つ失わずに。
そしてその剣が猩々のみならず、道満の鱗の肌へさえも死を刻み込んでいく。
「そうか、貴様か!」
滂沱の涙を袖で覆い隠し、道満は吼えた。
「最初から貴様が居れば、晴明が左目を抉る事もなかったであろうにな!」
猩々の爪にも、道満の光にも、動きを止めなかった白い甲冑の傀儡は、道満の言葉に舞を止めた。
忽ち猩々は傀儡に群がり、岩壁に打ち付けられたその男を道満の燐光が灼く。
「季武は貴様に言っておらぬのか? そうじゃな、如何に力があろうと、たかが傀儡じゃ、晴明はお前の心など知るまい」
道満には分かっていた。
異世に落とされた者が現世に戻ったのは、晴明の為だと。
が、晴明は気付くまい。
道満に対してもそうであったように。
「晴明の傀儡よ、儂に貴様の力があったなら――!」
燐光よりも爪よりも、傀儡を深く抉ったのは、道満の言葉だった。
が、傀儡は我に返り、四つ目の光り岩を覆う闇を切り払った。
溶けそうな程涙を流し続けた、闇に慣れた目を袖で覆うが、もうその醜い姿を隠す事も出来ない。
道満はキリキリと歯を噛んだ。
この傀儡のように力があったなら、人の姿のままで晴明の傍に居れたものを。このような醜悪な姿を、晴明に見せる事もなかったのを。
美しい傀儡は、猩々を凪ぎ、燐光に灼かれても前進し、道満の鱗の肌に死を刻んでいく。
もう、立ち上がれなかった。
痺れるほどの痛みと苦しみが道満を覆い尽くした時、あれほど憧れた光が、やっと道満の前にふわりと降り立った。
「道満、何故人を捨てた」
咎める言葉。憐れみの眼差し。
違う。
そんな目で見るな、そんな目で見るな!
「――力よ!」
憐れむな、晴明。
「そなたの如く、儂も、高みへと――!」
晴明は道満から目を逸らした。
憎悪でも良い、燃え立つ瞳を向けて欲しかったのに。
道満は黄泉が門を開けて、自分を手招きしているのを感じた。
晴明は、自分を殺したこの傀儡の時のように、呼び返してはくれないだろう。
その時。
空洞の筈の晴明の左の眼窩が光った。
道満に力を与えた、荒ぶる白い神。
「御方よ、探し当てましたぞ!」
遂に涙の涸れた目に、晴明の白い顔が映った。
「まさか御身が、このようなところにあろうとは!」
人の時に見たより、青ざめ、血の気の引いた唇。
「そうか、晴明……、そなた、御身より溢るる毒気に蝕まれておるな」
断末魔の苦しさより、魂の内側より溢れ出る歓喜に、道満は笑った。
「このままでは、もう、もつまい?」
死を知らぬ筈の晴明が、もうじき黄泉へ下る。
道満が向かう処へ。
「晴明、黄泉にて待っておるぞ……」
涙を流しすぎて干からびた道満の体は、魂魄が抜けると倒れ、ぱらぱらと乾いた塵を散らした。
晴明はもう道満を見ず、顔を上げて、
「月輪の時は来た」
と呟いた。
白い甲冑の傀儡は、月を見ず、ひび割れた道満の死骸を見下ろしていた。
さらさらと形を失っていく、道満だった物へ、傀儡は低い声で言った。
「お前のところに晴明は遣らぬ」
晴明にその呟きは聞こえなかった。
――了――
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