無名の竹林

 月に照らされた雪の上に膝をつくと、雪と月光の冷たさが染み込んできた。
 力が抜ける。
 表面の凍り付いた雪の上を、頼光の沓がサク、サクと、ゆっくり歩み寄る。
――我は死ぬるか……それも善かろう……これほどの()き敵の手に掛かるならばな
 崩れ落ちた我の前で足音は止まった。
 全身に刻み込まれた痛みの中で、我は頼光の剣を待つ。
 長い頼光の髪が、我の肩に流れ落ちる。
 だが、剣は我が身を貫く事もなく、髪の感触は消え、そして頼光は踵を返し、またサク、サクとゆっくり足音は遠ざかっていく。
「待て……頼……光」
 指一本動かす事もできない、死にかけた我が呼び止める声など、笹の揺れる音に掻き消され、頼光には届かなかった。
 次に目を開けた時は夕日が見えた。何日過ぎたのかは分からなかったが。
 寒さの中で固まった筋肉が軋み、漸く体を起こした時には、日はもう半分以上沈んでいた。
「う……ぐ……」
 頭がぐらつく。何か――。
 額を押さえて気付く。
 妙に軽いと思えば、左の角が途中から無い。
 打棍で凌いだ頼光の剣が、角に当たったのを思い出した。
 それで目が眩んで反応が遅れて……。
 いや、言うまい。
 我は負けたのだ。
 凍り付いた雪に頼光の足跡は残っていたが、見回しても、折れた角は残っていなかった。
 肩に触れた頼光の髪の感触。
「あやつめ、命を取らず、角を取って行きやったか」
 頼光の髪が触れた肩をつかみ、自ずとキリキリ歯が軋る。
 たったそれだけのことにも息が切れ、青い肌に刻まれた傷が痛む。
『頼光……貴様は……自分の意志で生きているか?』
 我の言葉にこのような意趣返しをしようとは。
 何としても、この屈辱は晴らさねばならぬ。
 角のない体に慣れて、打棍を持ち上げるようになった頃、彼方から、風に乗って笛の音が聞こえた。
 都にはもう生きた者など無いはず、と、首をひねった時に直感した。
 これは頼光だ。
 あの音の方に居るのだ、頼光は。
 力を振り絞って数歩歩いた所で、曲は終わってしまった。
 だが、我は進む。
 常であれば一跳びで越える谷も、今の我はヒトのように一歩ずつ、岸壁も這い(つくば)るようによじ登るしかない。
 尾根に辿り着き、雲の上に(そび)える山の上に残った桜樹が目に入る。
 そこに在った筈の頼光の気が消えた。
 そして山がせり上がり、見る見るその桜樹を飲み込んで覆い隠していってしまう。
「待て!」
 岩は麻や竹よりも早く伸びて行き、幾重にも重なっていく。
「……鬼よ、そなたにも頼光は渡さぬよ」
 一人の女がこちらを見下ろして笑った。
 岩が厚くなるにつれ、女の姿は薄くなる。
「勿論、我が身に触れる事もさせぬ」
 その亡骸に巫力を残さぬよう、すべての力で頼光を封じ込め、その魂が黄泉に向かうと同時に、女の体も消滅した。

 現世に頼光の魂はない。
 我の誇りを傷つけたまま、奴は消えてしまった。
 どれほどの年月が巡ったのか。
 我が身の傷は癒えても、角の折れた所に触れる度、胸の奥がじりじりと焦げる痛みは癒えることなどなかった。
 女が張ったのだろう結界の内で、ヒトはまた営みを始めた。
 同じ頃、妖鬼どももまたぞろ動き始めた。
 存外に結界は強く、ヒトは地に増えた。
 あの女はそれだけの力が残っていなかったのか、それとも敢えてそのように作ったのか、この結界は死を打ち消すものでは無かった。
 それとも、源の力を失った為なのかもしれない。
 いずれにせよ、我には関わりのないことだ。
 数年、いや、数十年に一度位は、都を眺めることもあったが。
 新たな結界も、やがて砕けていた。
 妖達が都の内に雪崩込み、ヒトを食らったようだ。
 だが、弱き者が強き者に食われるのは、自然の成り行きだ。
 我が止める筋合いはない。
 いずれまた、都からヒトはいなくなる。
 そう思っていたが、ある夜月の光が降り注ぎ、その光はそのまま結界を成した。
 余程の巫術師が現れたのであろう。
 驚嘆はしたが、興味は湧かなかった。
 またうかうかと近寄って、閉じこめられでもしては詰まらぬ。
「随分と羽虫どもの煩いことよ」
 甘い果実には虫鳥が寄りつくものだ。それは知ったことではないが、あぶれた妖どもが、我の所まできて騒ぐのは煩わしい。
 それがその日だけは、静まりかえっていた。
 酷く強大なモノ。
 それが都の向こうに降り立ち、それに怯えて妖も獣も震えて身を潜めているのだ。
「ふん」
 どうでもいいことだ。
 むしろこの静けさが昼寝に丁度良かろうと、岩の上に体を横たえた直後、飛び起きた。
 まさか。
 まさか!
 全身が粟立つ。
 黄泉へ流れたのではないのか。
 一体誰がどうやってあれを呼び起こした。
――いや。
 そんなことはどうでもいい。
 血が滾ぎる。
 我は千年ぶりに笑っていた。

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