外伝 オデッセイア4


 それでも、ヘファイストスは日に一度はオデュッセウスを見舞い、かの日の不遜を咎めるような事はなかった。
 概ね体調も戻り、ヘファイストスが敵意を見せたのも、熱に浮かされて見た幻かと思い始めた日、部屋を出ると、ヘファイストスでなく、 短いチェニックの若い男が扉の前に立っていた。
俺はジャイアン 間違いなく初めて見る顔だったが、見た事があるような気がした。
「お前がオデュッセウスか」
「……失礼ですが、どなたでございましょう」
「俺はアレスだ」
 慌てて膝をついて、礼を取る。
「お初にご尊顔を拝し奉ります。オデュッセウスでございます。ご無礼の段は平にご容赦下しますようお願い申し上げます」
「ふーん」
 性格も全く違い、顔が似ているわけでもないのに、髪が黒いだけでなく、アテナ、ヘファイストス、アレスは、どこと無く同じ色の空気をまとっていた。
 鳶色の瞳を輝かせて、アレスはオデュッセウスをジロジロ眺めていたが、 不意に、
「俺と剣の稽古でもしないか?」
と、笑いながら言った。
 更に頭を垂れて、オデュッセウスは後ずさりする。
「滅相もございません。どうかお許しください」
「そっちが病み上がりなのは知っている。俺は左で、お前と同じ木剣を使うからさ」
「ご容赦ください」
 アレスは食い下がったが、オデュッセウスは平伏して謝るばかりだった。
「つまらんなー」
 軽く舌打ちして、アレスはオデュッセウスに背を向けた。
 アレスが視界から消えると、オデュッセウスは、ようやく立ち上がって、胸を撫で下ろした。
 今日は、久しぶりに剣の稽古をしようと思っていたが、アレスが闘技場に向かった恐れが高いと計算したオデュッセウスは、図書室に向かった。
 先に居たキクロスに声をかける。
「アレス様にお会いしました」
「ああ、お前が熱を出した日にお越しなられてな。お前の事を色々訊いてらしたぞ」
「……先程、剣の稽古の相手をご所望されました」
「お前、そんなの受けたら、殺されるぞ」
「私もそう思いましたので、お断りしたのですが……。アレス様はいつまでご滞在なのでしょう」
「うーん、どうかな」
「アレス様が私の事をお尋ねだったというのは?」
「いや、別に、どんなヤツだ−、とか」
「はあ」
 オデュッセウスは別のテーブルの前に腰を下ろし、手をかざして文字を浮かび上がらせた。
 寝込んでいる間 、アテナとヘファイストスが交互に来室し、与えられた薬についての講義をしてくれていたので、忘れないうちに確認しておこうと、原植物についての資料を閲覧した。
 オデュッセウスが臥せている間、ヘファイストスは、ずっと柔和さを失わなかった。
 訊かれた事には親切に答え、イタケーに戻っても役に立つようにと、傷の回復を早める薬などについても丁寧に教えた。
 その間、オデュッセウスもヘファイストスも、アテナとの関係には言及しなかった。
 ……もし本当に。
 ……だがそうだったにせよ、私に何ができるというのだ。
 神の不興を買えばどうなるのだ。
 此処に居られなくなったら……!
 アテナ神の菫色の瞳は二度と私を顧みず、その唇に私の名が上る事はないだろう。
 そう考えた瞬間、オデュッセウスの胸の奥に冷たいものが生れた。まるで、氷の欠片が奥深くに刺さっているようだった。
 とても耐えられそうに無かった。
 だからこそ、あれは夢だったに違いないと自分に言い聞かせた。
 現に、ヘファイストスも、微塵もそんな事があったような素振りを見せないではないか。
 あれは、熱に浮かされて見た夢だったのだ。
 胸の中の氷片を追い出し、意識をテーブルの文字へ戻した。
 余計な事を考えずに済むように、オデュッセウスは意識の隙間に知識を詰め込む事に熱中した。
 突然テーブルから文字が消え、白いしなやかな手が、テーブルの上に置かれた。
「食事をしなさい、オデュッセウス」
 アテナが、テーブルの向こうに立って、諭すように言った。
「はい」
「余り根を詰めるな」
「はい」
 オデュッセウスは、アテナの姿を正視出来ず、思わず目を伏せた。
「学びたいなら好きなだけ此処を使って良い。だが、きちんと食事をして、きちんと休まなくてはいけない。分かっているな?」
「はい」
 オデュッセウスの返答に軽く頷いて、アテナは出て行く。
 その後姿を見送り、オデュッセウスは食堂へ向かった。

「アレス、オデュッセウスに絡んだそうだな」
「絡んだってのは何だよ。俺は剣の稽古をつけてやろうと言っただけだぜ」
 アテナは腰に両手を当て、アレスの前に立った。
「並みの人間がお前の相手になるものか!しかも相手は病み上がりの子供だぞ」
「だから俺は左手で、更に手加減する積もりだったんだって」
「しばらく此処のものに手を出さなくなったと思っていたのに」
「だって、あいつは兄者に生意気な事を言ったみたいなんだぞ」
「……ヘファイストスは何も言ってないぞ」
「兄者が姉者相手にそんな事言うわけ無いだろう」
 アレスはヘファイストスを慕っていて、それから出た行為だったのだ。アレスは腰をおろし、不満そうに少し口を尖らせていた。
「ではヘファイストスに訊こう」
 踵を返したアテナを見て、アレスは慌てて立ち上がり、アテナを制止した。
「姉者!それは止めてくれ!頼むから」
 アレスに肩を掴まれて、アテナは振り返った。
「もうあいつに手を出したりしないから。兄者には言わないでくれ」
「オデュッセウスがヘファイストスに無礼を働いたのなら、正さねばなるまい」
「俺も 細かい事は訊いてないんだ。でも、姉者が訊いたらまずい事だと思う」
「根拠は何だ」
「……勘だ」
「ほう」
 アテナは目を細めて、冷ややかにアレスを見る。
 アレスは激しく後悔した。下手な事を言うんじゃなかったと。
「お前の勘か」
「……そうだよ」
「ならば止めておこう。だが、もうお前も止めておけ」
 アレスは両手を挙げた。
「承知」
 アテナが出て行くと、アレスは手を下ろして安堵の溜息をついた。


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