外伝 オデッセイア14


 寝台に妻を横たえると、オデュッセウスは、服を脱ぎ、クレオパトラに渡された容器の中身を全身に塗った。
 するとかさついた肌は溶け、水をかぶると、髪もテレマコスとよく似た赤い色に変わった。
 出て行く前と同じ所にしまってあった服を出して着ると、彼を見知った者なら間違える筈もなかった。
 ペネロペは起き上がって、日頃護身の為に置いていた短剣を握り締めた。
 今此処で夫を殺せば、『オデュッセウスの妻』は、世に一人だけ。
 だが、ペネロペは鞘に収めたまま、短剣を置いた。
 その様子を見ていた不実な夫は、その瞳を曇らせただけで、恐れ気も無く妻を胸に抱いた。
「済まなかった。苦労をかけたな」
 オデュッセウスは妻の髪を撫で、妻に接吻した。
 アテナの唇が触れたそこに。
 だが、妻は恨み言を言う事はなかった。
 自らアテナに言った通り、夫はペネロペを必要としていなかったとしても、ペネロペにはやはりオデュッセウスが必要なのだった。
 もう、二度とオデュッセウスを失う事には耐えられそうになかった。
 例え、オデュッセウスが、ペネロペを透かしてアテナの幻に触れているのだとしても。

 尋常でない悲鳴の響くのを聞き、ラエルテスは、床から起き上がり、杖に体を持たせかけ、部屋を出た。
 家人を呼んだが、誰もやっては来なかった。
 少しずつ廊下を歩いて行くうち、かつて無いほどの静寂が訪れていた。
 求婚者達が横暴を始めてから、離れたラエルテスの部屋にさえ、静かな夜というものは無かったのだ。
 何かが起きていた。
 廊下の暗がりに、二つの足音が響いた。
 一つは聞きなれた孫息子の物には違いなかった。
 だがもう一つ。
 遠い昔、聞いた。
 心臓が高鳴る。
 そう、この足音が聞こえると、皆頬を赤らめたのだ。
 小さな灯りを持った孫の後ろに、もう一つの足音を響かせる者。
 ラエルテスは震えてその場に座り込んだ。
 杖が硬い音を立てて転がった。
「どうなさいました!大丈夫ですか!」
 テレマコスが驚き、駆け寄る。
 そして。
「久しいな、ラエルテス」
 自身が、灯りを持つ孫よりも若かったその時と、全く変わらぬ笑顔で、女神が微笑んでいた。
 老人は、震える手足を叱咤し、杖を頼りに立ち上がった。
「父上がご帰還されました」
「したが、己の妻に求婚した者達を殺してしまったのでな。その親族の復讐は免れまい。お前は病を得たと聞く。暫く何れかに隠れて居るが良かろうよ」
「…恐れながら」
 テレマコスは祖父の目に、かつてない光を見た。
「私共にこそ義がございます。老いたりとは申せ、かような人でなしを相手するに、どうして後ろを見せられましょう」
「さても、お前も相変わらずだな」
 女神は嘆息した。
「私もこのなりでは相手を出来ん。暫時待て、早まるではないぞ」
 女神は踵を返し、廊下の闇の中に消えた。
 ラエルテスは、背をしゃんと伸ばし、力強く歩き出した。杖はその身を支える為の物でなく、威厳を添える物になった。
「…お祖父様…」
 それはテレマコスの知らない者、アテナの神居にいた時のラエルテスだった。

 生き残った求婚者達は、アテナの巫女達に手当てをされ意識を取り戻したが、殺戮の夢に、恐怖を顔に貼り付けたままだった。
 自分達に相応の非があった事、そして、噂通りオデュッセウスがアテナ神の守護を得ている事を知り、逃げ帰った者は、復讐を勧めようとする親類縁者の裾に泣き縋って制止した。
 死んだ者の身内も、遺体を丁寧に清めて送り返された事によって、怒りを収めたのだった。
 アンティノオスの家だけは違っていた。
 イタケー一の郷士の家柄の事、生き残った者がアンティノオスの万死に価するほどの無礼な振る舞いや横暴が有ったのだからと言っても、その父は頑として耳を貸さなかった。
 送り返された死体からは血を拭い取られてはいても、眉間に穿たれた穴があり、その顔は何が起きたのかを理解せぬうちに死んだことが見て取れた。
「オデュッセウスの得意な卑怯によって、我が清廉なる息子は殺されたのだ!」
  エウペイテスは、そう叫んで憚らなかった。
 葬儀の衣装の上に甲冑をつけ、手に武器を握り締め、エウペイテスの家中はオデュッセウスの館に向かった。
 道半ばの丘の上に一人、戦装束も無しに立ちはだかる者があった。
「これをもって帰るが良かろう。従わねば一族根絶やしになろうことは正に必定であるぞ」
 ラエルテスは大声で、そう呼ばわった。
「何を抜かすか!病持ちのじじいめ!己の卑怯者の息子が私のアンティノオスを罠に嵌めたのじゃ!」
「アンティノオスは、我が宮の物を食べ、酒を飲み、あろう事か我が嫁のみならずアテナ神に懸想し、慮外せんとしたのだ」
「何がアテナ神じゃ、大方旅の途中にて売淫の巫女でも連れ帰ったのであろうが!」
 エウペイテスはそう嘲った。
 ラエルテスの顔色が変わった。
 ラエルテスは右手に持った杖を上げた。
 そのまま大きく振りかぶって、エウペイテスに投げつけた。
 それは杖ではなかった。
 土の中に埋まっていた穂先を光らせて、ラエルテスの手を離れた長槍は、エウペイテスの腹を射抜いてもう一度地に刺さった。
 怒りに燃えて、エウペイテスの息子達が剣を抜いた時、雲ひとつない空に雷光が見えた。
 光はラエルテスの後ろに降り立った。
 ヘファイストスの手になる兜を着けたアテナであった。
 アテナは静かに歩き、肩で息をするラエルテスを制し、その前に立ちはだかった。
 軍装の男達は蒼白になっていた。
 不意にアテナの手から輝く細い剣の刃が伸び、道標になっている岩を凪いだ。
「戻れ。もう、これで終わりにする」
 岩は鏡のような断面を見せていた。
 男達は恐慌を来たしていた。
 いくら吸っても空気が胸に入ってこないのだ。
 恐怖から過呼吸になっているのだった。
「……息を止めてゆっくり吐け」
 動けるようになった者から、いざるようにして来た道を戻りだす。
 息子達は洟と涙で顔をぐしゃぐしゃにして、立ったままの姿勢で地面に縫い付けられた父の体から槍を抜き取った。
 噴き出した血に悲鳴をあげながらも父を担ぎ上げ、よろよろと立ち去った。
 本当にパラス=アテナだった。
 父の亡骸を運びながら、兄弟は思っていた。
 あの方に懸想したのなら、兄は額を射貫かれただけですんで幸せだった。
 あの方をも罵った父の罪が、自分達に及ばぬようにしなければ。
「では、お前も戻るがいい。お前達ももうこの事で争ってはならない」
 アテナが静かに言うと、テレマコスとオデュッセウスが、剣を持って駆けて来るのが見えた。
 ラエルテスは頷き、アテナはまたその兜を雷のように光らせて去った。

 花摘みの帰り、クレオパトラが道を尋ねられ振り向くと、赤毛の青年がいた。
「アテナ様の御神居はこちらでございます、殿下」
 アテナの巫女は、微笑んだ。
「忝く存じます」
 テレマコスは深々と頭を下げた。


終わり


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