外伝 オデッセイア1


 少年は疲れた様子も見せず、歩き続けていた。若者らしい希望が胸に溢れていて、歩く事は苦にならなかった。
 草原の左側から、花のように笑いさざめく一行が近づいてくる。
「こんにちは、旅の方」
 彼女達は花摘みの帰りらしく、色とりどりの花の入った篭を抱えていた。皆見たことも無いような滑らかな生地の衣装をつけていた。イタケーでは、毛織物しか見たことが無かった。
「道をお尋ねしても宜しいでしょうか」
「どちらまでお越しになられるのでしょう」
「アテナ様の御神居へ」
「私共もです。旦那様、ご一緒しても?」
 彼女は列の中央にいる背の高い女性に話し掛ける。夜のように黒い髪をしたその女性は、優雅に頷き、少年に微笑みかけた。
「――私はイタケーの王子オデュッセウスと申します。こちらはどちらの姫君であらせられますか」
「殿下、主人に求婚なさるのですか?」
 一行にクスクス笑われ、オデュッセウスは赤面して俯いた。かなり身分のありそうな若い女性だ。彼は自分の軽率さを後悔した。

 神居の壮麗さに唖然とするオデュッセウスを置いて、乙女たちはさっさと行ってしまったらしい。衛兵に父王ラエルテスの書状とともに取次ぎを頼み、やっと控えの間に通されたのは到着してから三時間も経ってからだった。
 更に二時間ほどして、謁見の間に通された。広いその部屋の上座に不思議な色の御簾が掛けられている。その御簾の傍らに巫女と思われる女性が立ち、厳かに言い放つ。
「アテナ様がお出ましになられます。控えよ」
 御簾の向こうでさらさらと衣擦れの音がし、オデュッセウスは身を硬くした。
「イタケーの王子、ラエルテスの子、オデュッセウスでございます。勉学の為に主上に御仕え申し上げたいと参上しました由」
「されば、直答を許す。面を上げよ」
 厳かな声がし、音も無く御簾が上がった。
 そして、さも愉快そうに微笑んで、玉座から降り立つアテナ神の背に流れ落ちる夜のように黒い髪、その夜空に瞬く髪飾りの無数の星、それに縁取られた顔は、先の一行の主人。
「私がアテナだ、オデュッセウス。ついておいで」
 まさかオリュンポスの神の一柱がこんなに親わしく人と交わろうとは思わず、すぐに反応できない少年に先ほどの巫女が声を掛ける。
「参りますよ、殿下。旦那様はもう貴方の部屋を用意しておいでですから」
「道すがら凡その話は聞かせて貰ったからな」
「旦那様はお人が悪くていらっしゃる」
「御簾で見えもせんのに、こんな格好をさせられるのに時間がかかるなら、その間に何の準備でもできようが」
 アテナが指で触れただけで巨大な扉が道を開ける。
 慌てて続くと、二人からは先程の花の香が微かにした。やっと本当に先程の女性が『黄金のアテナ』であることを認識して、侍女たちに笑われた事を思い出して青ざめる。笑ってもらえたからこそ良いものを、女神相手に求婚と受け取られかねない質問をしてしまった。その場で処罰されても仕方ないほどの無礼。
 だが、アテナは気にしていないようだ。
 ほっとすると同時に、子供の言う事と相手にされていないような気がして口惜しいような気がする。

 石造りの謁見室から先は、壁も天井も石とも金属とも違う材質でできていた。それが合成物である事など、オデュッセウスが知ろう筈も無い。屋内であるにも拘らず、春の草原のように明るい。その廊下を行き過ぎ、次に開いた扉の先には、闘技場のように広い部屋があった。
 扉が開いた途端、中にいた多くの男たちが動きを止め、アテナを認めてその場に膝をつく。
「キクロス」
「御前に」
 中でも屈強そうな青年が返答する。
「先程連絡が行ったろう、イタケーのオデュッセウスだ。宜しくな」
「承知いたしました」
 アテナは部屋の奥に歩みを進め、他の者とも言葉を交わす。少し背が高いとはいえ、普通の女性とそうは変わらないアテナに、頭二つも高いような、肩幅など倍はあろう屈強な青年たちが、頬を上気させて頭を垂れる。
 キクロスに促され、更に別の廊下から一度表に出た。 すっかり夜が更けていた。下から波の音がして、潮風が吹き上がっている。
「ここがお前に与えられた部屋だ。荷はさほど無いようだが、その辺に置け。とりあえず食事だな。腹が減ってるだろう」
 言われて気付いたように腹が鳴り、大笑いするキクロスに連れられて食堂へ行く。
 腹が膨れた所で、肉片を掴んだままテーブルに突っ伏して寝てしまったオデュッセウスを、苦笑しつつ担ぎ上げ、キクロスはオデュッセウスの寝室に運んだ。
「明日の朝また迎えに来るぞ」
 キクロスは眠ったままのオデュッセウスに、そう言って出て行った。

「起きろ!」
 わざとだろう、大きな音を立ててドアが開き、キクロスが入って来た時も、まだオデュッセウスの右手には昨夜の肉片があった。
大笑いされて不満そうなオデュッセウスに、キクロスが部屋の錠のかけ方等を教えてくれた。
「で、錠をかけたら中に声が届かないから、ここで合図するわけだ。この指輪が鍵を兼ねてるから無くすなよ」
 渡された指輪は右手の中指にピッタリだった。黒っぽい金属の指輪で、表面に複雑な模様がついている。扉に嵌め込まれた黒い石に、指輪をかざすと錠が開閉されるようになっていた。その仕組みにも驚いたが、昨日の今日でオデュッセウスの指の太さが分かっている事に驚いていた。
「なにせそれを作られたのはヘファイストス様だからな」
 与えられた個室には、湯浴みをするところもあり、旅をしてきた埃と、昨夜の肉の脂を落とすよう指示された。
「此処には時々ヘファイストス様もお見えになるから、一生懸命やればお手ずからの物も頂けるかも知れないな」
「ヘファイストス様を見た事が有るんですか?……おみ足が不自由で、背も曲がっていらっしゃるとか……」
「いや、背が高く広い肩をなさって、アテナ様のように黒い髪をしておいでだな。アレス様と並ぶ偉丈夫だ」
 キクロスは自分の言葉に腕組みをしながら頷く。着衣を整えながら、オデュッセウスは更に訊いた。
「そんな方がどうして、……醜い姿をしているとか……不名誉な噂を流したままになさっているんですか」
「えっ、あー……」
 キクロスは口ごもっているが、ちゃんと理由を知っていて隠そうとしているのだと、オデュッセウスは感じた。
「お願いです、教えて下さい。アテナ様にお仕えするのに、ほかの神々様にご無礼があってはアテナ様にもご迷惑が掛かりましょう」
 元はといえば、ヘファイストスと気付かず無礼を働かぬようにとの配慮から、その容姿を教えたのである。そう言われてはキクロスも言わない訳にいかなかった。今までのよく通る大きな声ではなく、低い小さな声でそっと、
「アフロディーテ様はヘファイストス様に懸想していらっしゃるようなのだが、それをお嫌いになられたヘファイストス様が、諦めて頂く為にそういう噂を流していらっしゃるようなのだ」
 世間で流れている話と逆である。並ぶ者の無い色香をたたえた美女といわれるアフロディーテに、醜いといわれたヘファイストスが言い寄られて逃げ回っていると言うのだ。
「諦めるも何も、お二柱はご夫婦なのでは……」
 更に訊き出そうとしたオデュッセウスをキクロスは先に制した。
「さあ、今日は案内して、皆に紹介しておこう!やる事は沢山あるんだ、急げよ」

 いかに若くとも、長旅をして着いた翌日である。それを考慮して、今日は座学を中心にやろう、と言う事で、キクロスは図書室に来た。
 ヘファイストスとアテナの合作だと言うテーブルの前に座らせ、オデュッセウスにその上に手をかざすようキクロスが指示した。するとテーブルが光り、輝く文字が浮かび上がる。これも指輪に反応しているとの事だった。読み書きはできる事を確認し、キクロスが操作を教えながら地図を浮かび上がらせる。
「此処がお前のイタケーだ。今私たちがいるのは此処」
 各国の位置、呼び名、王の名前などを次々浮かび上がらせ、オデュッセウスに憶えさせる。彼はとても飲み込みが早かった。操作方法もすぐに覚えた。
「見込みは有りそうか?」
 不意に後ろから声がした。男物のようなチェニックだが、豊かな胸、くびれた胴は明らかに妙齢の女性のもの。長い髪を背中で簡単に束ね、菫色の瞳に微笑を湛えているのは、パラス・アテナだった。
「はい」
 キクロスも虚を突かれたようで、上ずった声で返答をした。
「お出ましに気付きませず、失礼いたしました」
「キクロスはお前の為に自分の勉学の時間を削っているのだから、よく聴いて、早く一人でできるようにおなり」
 微笑みかけられたオデュッセウスより、自分を気遣われたキクロスの方が赤面し、恐縮していた。黒い髪をなびかせてアテナが去ると、キクロスが小声で言った。
「湯浴みをしておいて良かっただろう」
「……ええ、有難うございます」
 動悸が治まるまで、二人は呆然とアテナを飲み込んだ扉を見続けた。




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